英雄ラファシ伝 岡崎弘明
第二回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞受賞作である。
プロローグはまるでSFのように始まる。地球からの移民たちが宇宙船に乗って、シリウスを目指していた。ところが、宇宙船にとりついていた悪魔が、その進路を狂わせ、彼らを銀河の彼方のとある惑星に導く。そして一万年が過ぎ、彼らは科学を忘れ去って、この惑星の上に独自の文化を築いた。
悪魔のしわざによって、この惑星の自転は遅くなり、長い昼と長い夜の一日がおよそ八年くらい続くようになっていた。人類は寒く暗い、死者の世界である夜の到来を恐れ、太陽を追って、常に移動を繰り返す生活を送っていた。そんな種族の一つララ族の、まじない師の息子として生まれたのがラファシである。彼は移動を繰り返す生活に疑問を抱き、大地が球体なのではないか、昼と夜とは交互に訪れるのではないかと考え始める。やがて彼と彼の兄弟たちは、強力なまじないの力と愛の力により、悪魔がもくろむ種族間の大戦争を防ごうとする……。
常に太陽を追って移動を繰り返す人々の生活というアイデアは(そう珍しいものではないが)面白く、本書ではそれがよく生かされている。またこの世界にいる様々な不思議な生き物たちの描写も楽しい。ただ、こぼれた涙が砂金となるといった童話的な、あるいは神話的な叙述と、普通の異世界ファンタジー的な、つまり魔法は存在するが基本的にはリアルな冒険物語とが、必ずしもしっくりととけあっているとはいえない。むしろ本書ではそれが分裂しているようにも見える。この設定ならば、異世界冒険SFとしてストレートに描かれていた方が、評者にはより満足のいく娯楽作品となったような気がする。
時の迷宮 グレゴリイ・ベンフォード
ギリシアにおける考古学的発掘と、物理学上未発見の第五の力とをからめた、本格的なハードSFである。
紀元前十五世紀のミュケナイ文明の遺跡を発掘していたアメリカの女性考古学者クレアは、古代の王墓から不可解な石灰岩の立方体を発見する。これまでこのような遺物は、ミュケナイの遺跡から発見されたことがなく、考古学上の常識とは合わないものだった。だが、ギリシアの政治情勢が緊迫化し、彼女らは発掘現場から追われることになる。物語はこの遺物をめぐっての、クレアとギリシア側との争奪戦を中心に、遺物の謎の解明をもう一つの主題として展開される。クレアの手によりアメリカへ持ち出された遺物は、MITの若い数学者ジョンの調査により、大変に異常な物理的性質を持っていることがわかる。やがてギリシア側の反撃が始まり、アメリカ政府もこの事件に介入してゆく……。
本書でもっとも読みごたえがあるのは、ジョンと科学者たちによる、遺物の謎の解明の物語である。実験によるデータとそれに対する理論的仮説、さらに別の角度からの実験データと理論の再構築…というように、まさしく科学の現場のリアリティをもって描かれている。これぞ科学者作家ベンフォードの本領発揮といえるところだろう。登場する科学者たちも、いかにもそれらしく、生き生きとした実在感をもって描写されている。『タイムスケープ』以来ひさびさの、ベンフォードの本格ハードSFといえる由縁である。その一方、本書の中核となっているスパイ小説的な冒険物語の方は、もうひとつ後味がよろしくない。ギリシア側の登場人物がいかに悪役として描かれていようと、やっぱりこれは大国の横暴になるんじゃないだろうか。
念術小僧 加藤正和
第二回日本ファンタジーノベル大賞候補作の本書は、これは珍しい、落語SFである。
落語小説というものが世の中にあるのかどうか、評者はよく知らない。落語そのものではなく、小説として読むための落語。演じられる落語と読まれる落語は、きっと微妙に異なるものであるはずだ。そういう意味で、本書は正しく落語小説といえる小説である。えー、本日はようこそのおはこびで……と始まる落語口調の文体で書かれ、八っつぁん熊さん、ご隠居に与太郎も登場するのだが、それは決して高座でこのまま演じられるためのものではなく(もちろんそれも可能かも知れないが)、この小説にとって最もふさわしい語りの手法として採用されたものである。「この作品は、一見、落語に似ているが、その本質は、まぎれもない小説だということなのだ。それを、ぼくは落語小説といっている」という、解説の横田順彌氏の言葉は、まさしくその点を突いている。さらにまた、ある種のSFと落語とは、横田氏や小松左京氏の例を持ち出すまでもなく、昔から近しい関係にあったと思う。外国でも、ほら話とSFは切っても切れない関係にあった(ラファティを見よ)。その源は奔放な想像力と、それをやや突き放した所から見ることから生じるユーモア感覚(そこがファンタジーとSFの違いかも知れない)にあるのだろう。本書の主人公は超能力者の少年であり、異星人やタイムトラベルもからむという、これまでの日本ファンタジーノベル大賞がらみの作品では、最もストレートなSFの道具だてを持っている。ストレートすぎるといわれればそれまでだが、落語口調がうまくそれをカバーしている。この路線はいいかも知れない。唐沢なをきのイラストがぴったりはまっている。
90年のSF 大野万紀
一九九〇年は東欧の激変の翌年、イラクのクウェート侵攻の年だった(結末がどうなったかはご存じの通り)。まさしく、ひとつの時代が終わり、次の時代がまだ始まっていないという、宙ぶらりんな気分の年だった。
そのため、ということはないだろうが、SFについても、なんとなく印象の薄い年だったように思う。日本人が初めて宇宙を飛んだ年だったにもかかわらず、SFに何のインパクトを与えることもなかった。元気がいいのはヤングアダルト向けの文庫ばかり。もっともここからもようやく未来の日本SFを担う作家が現れてきたようで目は離せない。
さて、九〇年のSFだ。まず、翻訳SFでは、年末に注目作が多く現れた。逆にいうと、年末までずば抜けた作品がなかったということになるが、その中で評者が読んで面白かったのはブリンの『知性化戦争』である。SFに新風を吹き込むような作品ではもちろんないし、本格SFというにはもの足りない、いわばB級の作品であるにもかかわらず、この楽しさは良質のSFのものだといえる。いかにもアメリカ的な傲慢さというのも、前作ほどには感じられなかった。一方でSFの知的な側面に訴える作品としては、ワトスンの短篇集『スロー・バード』がある。収録作にはできふできがあるが、いかにもこの作者らしい凝った知的エンターテインメントである。年末に邦訳が出たスターリングの『ネットの中の島々』は、その後の湾岸戦争とぶつかって、実にタイムリーだったといえる。空襲されるバグダッドからのCNNの衛星中継は、SFと現実が同時進行する時代の気分というものを味あわせてくれた。とはいうものの、『ネットの中の島々』が湾岸戦争を予見していたというわけではないし、ほんの数年で現実に追いつかれるSFというものに、いささか寂しい感じがしたのも事実である。SFの科学技術が急速に時代遅れになるのはしかたがないとして(『ネットの中の島々』でも普通のファクスがハイテク製品として紹介されたりしている)、SFの描く未来社会がこうもす早く現在と重ね合わせになってしまうのは、SFの活力を失うことにつながるような気がしてならない。となると、やっぱりモフィットの『創世伝説』のような古き良きハードSFや、カードの『死者の代弁者』のような保守的なSFの方が、あるいはジンデル『ありえざる都市』のような濃密なアイデアSFの方が生き延びていくのかも知れない。ちなみに評者は『創世伝説』はとても面白く読んだ。こういうのは大好きです。カードは筆力で読ませたが、SFとしては疑問が多い。ジンデルは盛り込まれたアイデアには面白いものが多いのだが、まだこれからの人でしょう。翻訳SFとしては、その他ステープルドンの古典『スターメーカー』、著名な科学者であるデイヴィスのハードSF『ファイアボール』、ベンフォードの『光の潮流』、グリムウッドの『リプレイ』、ディッシュの『ビジネスマン』などをあげておこう。
九〇年は実は日本SFの年だったという人がいる。評者は翻訳中心に読んでいたので印象が薄かったのだが、題名をあげると確かにそうに違いないと思う。日本SF大賞をとった椎名誠のSF分野での活躍(『アド・バード』『水域』『武装島田倉庫』の三部作)、大原まり子の最高傑作との評価が高い『ハイブリッド・チャイルド』、神林長平のメカもの及びヴァーチャル路線の『完璧な涙』『我語りて世界あり』、草上仁のあいかわらずの大活躍(『星売り』『ウオッチャー』『ラッキーカード』など)、ベテランではかんべむさしの『遠い街・恋の街』、梶尾真治の『サラマンダー殲滅』など。新人の台頭もめざましい(山本弘『時の果てのフェブラリー』、菅浩江『歌の降る星』など)。これは確かにすごい。さあ、いよいよ次の時代の始まりだ。
戦士志願 ロイス・マクマスター・ビジョルド
新進女流作家のスペース・オペラ。作者は本格SFで八九年のネビュラ賞を受賞しているが、本書のシリーズは典型的な娯楽作品である。
舞台は様々な星間国家が割拠している未来の銀河。主人公は君主政を採用している惑星バラヤーの貴族の若者(本書では十七歳の少年である)マイルズ。本書はこのマイルズくんの宇宙での冒険を描くのだが、現代のスペース・オペラだなあと思うのは、彼が生まれつきハンディキャップを負っているということだ。生まれたときに宮廷の陰謀に巻き込まれ、足が不自由となったのだ。そのため士官学校への道を閉ざされてしまったマイルズだが、冒険心は抑えがたく、ベータ星へ旅行することになった時、ボディガードのボサリ軍曹とその娘エレーナを巻き込んで、身分を偽り、旧式の貨物船で宇宙へ飛び出してしまった。このへんがいいかげんといえばいいかげん、むちゃくちゃといえばむちゃくちゃなところなのだが、それを貴族のわがままで通してしまうのがすごい。マイルズたちはあれよあれよという間に戦乱のタウ・ヴェルデ星系へと軍需物資を密輸する仕事を請け負い、はったりと機転でそれがどんどんエスカレートし、ついには傭兵隊を指揮するようになってしまう。マイルズの私設デンダリィ傭兵隊の誕生である。
悲劇もある。ボサリとエレーナの過去に関する暗い物語。けれどまあ、全体的にはアメリカ的というか、湾岸戦争バンザイというか、ひたすら調子のいい物語である。そういうのが嫌な人には楽しめないかも知れないが、割り切って読むぶんには面白い娯楽SFだ。でも、マイルズくんにはもう少し大人になってもらわないと、周囲は大迷惑だよ。
グラス・ハンマー K・W・ジーター
ディックの序文つき『ドクター・アダー』で話題をよんだジーターの邦訳四冊目。
大戦争後の未来のアメリカ。荒野と化したその大地を特別仕様車で走り抜け、ハイテク部品を闇市へ運ぶ、スプリンタと呼ばれる冒険者たち。その姿はビデオ撮りされ、衛星放送で世界中に放映されている。スプリンタのひとり、スカイラーは、彼を主人公とする伝記番組の作成にかかわり、背後にある虚構と陰謀に気づいていく……。
という風にまとめると(これは本書の裏表紙にあるあらすじ紹介でも同じ)よくある冒険SFのようだが、実は本書は全然そんな話ではない。本書は娯楽SFですらなく、かなり骨のある実験的作品なのだ。もっとも、その中心にあるのは、ビデオによる現実と虚構の混交といった、比較的われわれにも理解しやすいレベルのものであり、それほど衝撃的というわけでもない。その背景にはステンドグラスの破片から真実を再現しようとする男とか、倒錯した神秘主義的な宗教とか、あらゆる機械に偏執的な興味と技量を示す男とか、いかにも〃ディック的〃な世界が広がっている。野心的なSFでありながら、どこか既知感があるのはそのせいだろう。
読者は本書のスタイルには混乱させられるだろう。はじめのうちは何が起こっているのかすらわからないかも知れない。単にカットバックで時間が前後しているだけではなく、ビデオによって語られる現実が編集されているのだ。てっとり早く状況を把握したい人は、山岸真の解説を読むこと。見事に要約されており、ポイントが押さえてある。でも、TVドキュメンタリーのメイキング・ビデオを見ているのだと思えば、それほど混乱することもないのでは。ヴァーチャルです。
宇宙のランデヴー2 A・C・クラーク
アーサー・C・クラークとジェントリー・リーの合作による『宇宙のランデヴー』の続編である。
二二〇〇年、謎の飛行物体〈ラーマ〉が再び太陽系を訪れる(前回とは別の〈ラーマ〉である)。前回から七〇年の時間がたっており、その間に人類は大きな社会変動を経験していた。このため、宇宙開発をはじめとする科学技術の進歩は遅れ、社会も保守化していた(これが実は、描かれている科学技術や社会風俗が二百年も未来のものとは思えないことに対する説明となっているのだ)。それでも人類は〈ラーマU〉の謎を探るため、選り抜きのチームを派遣する。
物語の冒頭から、チームに選ばれたエリートたちの権力争いや愛憎の人間ドラマが展開する。その中心となるのが女性ジャーナリストのフランチェスカとアメリカ人科学者のブラウン博士、そして本書のヒロイン役となる医学者のニコルと天才技術者のウェイクフィールドである。このドラマは彼らが〈ラーマ〉に到着し、様々な調査を始めた後までずっと尾を引く。これこそクラーク単独ならば書かなかっただろう物語である。ただしはっきりいって、評者にはあまり成功しているとは思えず、かえってわずらわしい気がした。前作の『宇宙のランデヴー』はクラークのハードSFの最高傑作といっていい作品だった。その続編としては、いささかハードさに乏しいという感じがする。とはいえ、舞台が〈ラーマ〉内部に移ってからは、前作とは異なる新しい展開があり(ついに異星の生物が登場するのだ)、いかにも宇宙SFらしい面白さとなって、一息に読み終えてしまった。物語は本書で終わらず、さらに次作へと続いている。早く続きを読みたいものだ。
ボルネオホテル 景山民夫
幽霊屋敷を舞台にした、とてもオーソドックスなホラー小説である。
ボルネオ北部のあるリゾートホテル。その別館として使われていたボルネオホテルと呼ばれる古い洋館。普段は使われていなかったその建物に、九人の男女が宿泊することになる。フリーライターの戸井田修、大学院生アン・ドールトン、ダウン症の障害がある息子をもつクーパー一家、日本人の新婚カップル、インド人のシン、そしてホテル従業員のハリミである。激しい嵐の中、ホテルへ渡る橋が落ちて、彼らは前世紀にイギリス人貴族が建てたこの古い建物に閉じ込められる。
このホテルには悪霊が存在していた。地下プールの亡者、ポルターガイスト、毒虫の大群、過去に惨殺された現地の人々の霊、そしてそれらを支配する、この館の女主人だったケペル夫人の悪霊……。
まずは最も精神的にひ弱だった日本人新婚カップルが、その犠牲者となる。次々と起こる怪事。だが、戸井田とアンは、悪霊に対し反撃を開始する。アンには霊能力があり、戸井田にも強い精神力があった。彼らと悪霊との死力を尽くした戦いが始まる……。
いかにも映画的な展開である。オカルト映画のパターンそのものだ。映画で、そんなところに行くんじゃないと観客が思っているのに、登場人物がそこへ行ってしまうという、あのパターン。本書の怪奇描写には迫力がある。しかし、主人公がとても前向きで強い精神力の持ち主なので、恐怖よりも、冒険アクション小説のような読後感が強い。ところがあとがきによると、ここに描かれた心霊現象のいくつかは、著者が本書を執筆中に実際に体験したものだという。そう聞くと、今度は本当に背筋がぞっとしてくるようだ。
故郷から一〇〇〇〇光年 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
一九七三年に出版されたティプトリーの第一短篇集である。ティプトリーがその経歴の意外さや華麗さによってではなく、作品そのもののすばらしさによって、それのみで評価されていた時代の短篇集である。
評者にとっても、本書は特別に思い入れの深い一冊だ。学生のころ、それこそむさぼるように読み、才気あふれる過激なユーモア、きらめくような文体、絶望的な、どうしようもない悲痛さ、そういったものを味わい、優れたSFだけが現すことのできる、突き放した感覚にしみじみと酔いしれたものだった。
作者が実は女性であったこと、非常に興味深い人生をおくった人間であること――いま、そんなティプトリーの実像を知った後の目で見ると、本書の作品もまた違った印象を与えることは確かである。過去は帰ってこない。いや、すばらしさがトーン・ダウンしたというわけではないのだ。むしろ、以前は軽く見ていた話が、いま読むととても重い、おそろしく深い意味をもつ話だとわかったりする。でも、あのころの、謎めいた、きらきらした〈彼〉の魅力、ユカタン半島のコテージで静かにタバコをくゆらす、渋い男のロマンティシズム、それはやや気恥ずかしい思い出の中のものとなってしまった。
小説とその作者は別物である。それはまあ当然だが、ことティプトリーに関しては、そういってすましてしまうには、作者に対する思い入れが強すぎる。作者の実像が明らかになる前から、作品から想像されたある作者像というものが一人歩きしていたのだ。ティプトリーの作品を読む人は、こんな話を書くのは一体どんな人間なんだろうと考えずにはおれないようだ。それだけ、作品の衝撃が大きいということだろう。
本書の冒頭にある「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」は、わが国で初めて訳されたティプトリーの作品である。本書と同じ、伊藤典夫氏の訳で、SFマガジン七四年三月号にひっそりと紹介された。何のキャンペーンもなかった。ごくさりげない顔見せだった。だがこの作品と、その二ヶ月後に紹介され、同じく本書に収録された「苦痛志向」の二編で、多くのファンがティプトリーに注目し、強烈な印象を与えられたのである。内容についてはふれない。二編とも、何度読み返しても味わい深い傑作である。
「愛しのママよ帰れ」と「ピューパは何でも知っている」そして「セールスマンの誕生」はティプトリーの最初期の作品。いずれもドタバタSFである。ティプトリーは知的なおふざけ、馬鹿騒ぎが大好きなのだ。こういうものは純粋に楽しみたい。でもいまとなっては、作品の背後にあるものが、いやでも見えてきてしまう。ああ、無垢には戻れない。ドタバタといえば、本書では「ドアたちがあいさつする男」や「スイミング・プールが干上がるころ待ってるぜ」なども(傾向は違うが)楽しいコメディである。訳者の解説にもあるように、評者も楽しい作家としてのティプトリーにもっと目を向けるべきだと思う。
「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」は愉快ですてきな宇宙SF。ここにはSFファンとしてのティプトリーが現れている。そして巻末の「ビームしておくれ、ふるさとへ」。これは本当に悲痛な、心にしみる傑作だ。ぜひじっくりと味わってほしい。
最後に、『老いたる霊長類の星への賛歌』の序文でアーシュラ・K・ル・グィンが書いた言葉をここに引用しよう。
――ここにはこの上なく強烈で悲しくおもしろく、とても 美しい物語がおさめられています。――そして、――ここには 本物の物語がおさめられています。
マッカンドルー航宙記 チャールズ・シェフィールド
ファンの間で名のみ知られていたシェフィールドの本格ハードSFが翻訳された。本書はハイテク用語をちりばめ、科学雑誌の最新号からアイデアをもってきたようなよくあるハードSF(それはそれでいいのだが)とは違い、本当に〈本格的な〉ハードSFである。巻末には作者自身による科学解説(これがとてもよくできている。作者の前書きとあわせて読めば、ハードSFトラの巻となり、とりわけ面白い)がついており、さらに橋元淳一郎氏による解説もついている。
本書でのハードSFのアイデアは、カーネルと呼ばれるミニ・ブラックホールの利用、相殺航法という準光速航法とそれに付随する真空エネルギーの抽出が大道具で、後は細かいものである。とてもオーソドックスなものだ。だがそれだけ奥が深い。十年ほど前に発表された本だが、少しも古びてはいない。このあたりの詳細は解説を読んで頂きたい。
そしてとりわけ重要なのが、本書の(ハードとつけなくてもいい)SFとしての面白さだ。天才科学者マッカンドルー博士と女宇宙船長ジーニー・ローカーという奇妙なコンビで、太陽系(といってもオールト雲まで含む広大な領域)狭しと活躍する姿には、古典的なスペースオペラの趣すらある。これは決してハードSFファンだけの本ではない。科学が苦手だという人でも、本書を読み通すのに何も苦痛はないだろう。テロリストとの戦い、官僚機構と人間関係、危険な惑星での冒険といった要素の他にも、微妙なロマンスやどことなくイギリス風のユーモア感などがあふれている。評者の印象では、シェフィールドは作風の面で彼の学生時代の師であるフレッド・ホイルを思わせる。マッカンドルー博士にもその面影があるのかも知れない。
久遠 グレッグ・ベア
『永劫』の続編。永劫と久遠とどっちが長い時間なのか、よくわからないが、とにかくとてつもなく大きなスケールの物語である。
登場人物にロシア人とかアメリカ人とかが出てくるのだが、基本的には遠未来SFといっていい。つまり、「科学と魔法が区別がつかないような」遠い未来のお話である。だから、先端科学の用語がでてきても、それは魔法と同じ意味で使われており、決してハードSFというわけではない。なにしろ、(ビジョンという点では)ステープルドンや、従って昔のクラークや小松左京にも通じる、人類進化テーマの作品なのだ。
とはいうものの、ベアの場合、あまりそういう〈哲学的〉というような感じはしない。大きなテーマをストレートに押し出すよりも、作風が、登場人物たちの動きやエピソードで読ませる、いま風の映画的な小説の書き方をしているせいだろう。もっとも、こういう文体がこの種の遠未来SFに適しているのかどうか、やや疑問ではある。
前作では、地球の上に突然現れた巨大な恒星間宇宙船〈ストーン〉と、その内部から無限の時空へと通じる超空間回廊〈道〉での冒険が描かれた。今回は、それから四〇年が経過し、未来人と地球人の対立や、異星人との戦いによっていったん封鎖された〈道〉を再び結合しようとする動きが描かれる。その背後にあるのは、宇宙的な意志とでもいうべき、超越的な存在である。うーん、この超越的存在がねえ、別に悪くはないのだが、ちょっとせこい。まあ親しみはわくんだけれど。むしろ、もうひとつのエピソードとして描かれる、別の時空の地球(そこではヘレニズムの帝国が現代までつづいている)での、パトリシアの孫娘リタの冒険が面白かった。
永劫回帰 バリントン・J・ベイリー
〈ワイドスクリーン・バロック〉をほとんど一人でやっている感じのあるベイリーの、比較的新しい作品である。『禅銃』と同じ、八三年に出版されたものだ。
本書でもベイリーの(良い意味の)めちゃくちゃさというのは健在だ。なにしろ、大宇宙の時空構造が気に入らないといって、ひとりでそれに(つまり、宇宙の構造に)立ち向かってしまう男の物語なのである。単身で巨悪と戦うヒーローというのは多いけれど、ここまでやるのは普通ないよ。
主人公は一応一種の超人である。身体改造され、一隻の宇宙船とリンクされていて、なかなか強力な力をもっている。けれども、ある意味では大きなハンディキャップを負っているともいえる(宇宙船からあまり離れると生きていけないのだ)。特に、過去に想像を絶する苦痛を受けたトラウマが大きく、精神的にはずいぶんと屈折している。それでもまあ、人間には違いないのだ。彼の目的はただ一つ。この宇宙の時空は円環構造をしていて、永劫回帰する。それを打ち破ること。おりしも〈時間石〉と呼ばれる禁制の宝石が採取できるという謎の放浪惑星が現れた。彼は何人かの協力者とそこへ向かう……。
しかし、話はいかにも壮大でベイリーらしいのだが、彼の他の作品に比べるとやや物足りない印象がある。わりとストレートだな、という気がするのだ。『カエアンの聖衣』にしろ『禅銃』にしろ、中心テーマは中心テーマとして、むしろ枝葉のアイデアやエピソードが面白いのだが、本書ではそこがもうひとつだ。ヒーローがひたすら意志強固なので、それにひきずられたのかも知れない。でも異常な風俗や習慣の描写はいつものベイリー。何よりもぶ厚くないのが嬉しいね。
悠久の銀河帝国 クラーク&ベンフォード
クラークの『銀河帝国の崩壊』の続編をベンフォードが書き(本書の第二部)、それに『銀河帝国の崩壊』を第一部としてそのままくっつけたのが本書である。こういうのもありなんだねえ。
結局はベンフォードの作品なのである。『銀河帝国の崩壊』をまだ読んでない人は、クラークの作品をまず単独で読んでほしいという気がする。その後で、ベンフォードの作品として本書(の第二部)を読むのがいいんじゃないだろうか。
というのも、かたやクラークの実質的な処女作で、人類の遥かな未来を静かに描こうとする作品、かたやこれまたいかにも最近のベンフォードらしい、生物と非生物の闘争をテーマとした作品。両者には半世紀近いギャップがあり、作品の持ち味や雰囲気も、読みどころもまるで違う。これを一つの作品として読めというのは、やっぱり無茶だと思う。
ただ、どちらもいい話なのだ。クラークのはもちろん名作。さすがに今読むとのんびりしていて、SFの気恥ずかしさを感じる部分もあるのだが、純粋に人類の未来を語ろうとする少年っぽい感動にあふれている。完成度ははるかに『都市と星』の方が上なのに、いまだに読み続けられているのはその純粋さによるのだろう。ベンフォードのも、クラークの設定を借りながら、現代のハードSFとして、いかにも彼らしい作品となっている。これは彼の『大いなる天上の河』のシリーズだといっても通りそうだ。クラークの『銀河帝国――』には実はハードSF的な説明がほとんどない。ベンフォードはそこを(クラークとは違う方向から)ハードSF的に補強し、壮大なスペクタクルに仕上げた。あなたがベンフォードのファンなら、読むべし。
やっかいな関係 星新一
星新一のひさびさのショートショート集である。新作ではないが、あとがきによると、再録にあたってかなり作者の手が入っているようすだ。たとえば、現実に追いこされそうな未来の描写は変える。あるいは省いてしまう。会話もずいぶん簡潔に手直しされたようだ。短い話がますます短くなり、エッセンスのみとなる。それでも星新一のショートショートの、あの未来のおとぎ話といった雰囲気は変わらない。
本書は田中靖夫のイラストがついた大判の絵本である。だが、イラストは説明的ではなく、絵本というよりは、装丁やデザインで見せるつくりとなっている。ショートショートのイラストはこういうのがいいですね。過去に、作品のオチをばらしたり、読者によけいなイメージを押しつけるようなイラストがあったものだが、ああいうのは困りものだ。本書のイラストには独自のセンスがあり、ショートショートに似合った簡潔さがある。
本書はまた、『作品100』以来の星新一の自選短篇集である。本書の成立を語ったあとがきからも、著者の意気込みが伝わってくる。四十一篇が収録されているが、たとえ昔読んだことのある話であっても、不思議に新鮮で、損した気分にはならない。評者の好みでいえば、「町人たち」「さまよう犬」「こん」「三段式」「タブー」「ある旅行」「ご依頼の件」といったあたりがお勧め。本来評者はショートショートといえどももう少し長めの方が好みなのだが、これらはごく短いのに、なんとなく余韻が残るのがいい。
かつてSFとショートショートは切っても切れない関係にあった。いまではそうでもなくなったが、こういう形で表現するのが最も効果的なSFというのもあるのだ。
未来の恋の物語 大原まり子
〈イル&クラムジー〉シリーズの五冊目で、あとがきによれば、このシリーズはしばらくお休みなのだそうである。うーん、それは残念というファンも多いだろう。
大原まり子のキーワードは〈願望充足〉である。なんていうと身もふたもないいい方になってしまうが、SFとはもともと「ありえないほどもてなしのよい世界を描いたファンタジイ(カート・ヴォネガット)」だったのだ。そして願望というのが、必ずしも日常的・常識的な意味での好ましいことをさしているわけではないのも、いうまでもないことだろう。それは残酷で悲痛なものにもなりえるのだ。もうひとつ、大原まり子についていえば、とても宙ぶらりんで、モラトリアムな存在としての〈少女〉がある。(クラムジーだって、その属性はここでいうような宙ぶらりんの〈少女〉のものだといっていい。断じておかまじゃないよね!)それから、少年たちをどぎまぎさせるものとして、少女たちの〈死〉への近しさというのがある。本書でも何人かの〈少女〉たちが描かれ、そして何億という死が描かれる。(さらりと書かれているが、おそらくは『ハイブリッド・チャイルド』とも通底するテーマであろう)それは、本書での重要なテーマである時間、あるいは因果律、あるいは〈過去も未来も相互に不確定なら、そのはざまで失われてしまった現実は、いったいどこにいってしまったの?〉という問題とも関わってくる(つまり、宙ぶらりん、不確定性という意味で)。うーん、大原まり子を論じようとすると、文章が支離滅裂になってくるぞ。本書はもっと軽い話なんだし、今回はこの辺にしておこう。
まあ、ヒロ刑事も幸せになったようだし、一応これでめでたしめでたしですね。
最後の戦闘航海 谷甲州
湾岸に派遣されたわが国の掃海部隊も、一応の成果をあげたようだ。〈航空宇宙軍史〉の最新刊である本書は、外惑星動乱の戦後処理にあたって、機雷除去の作業を命じられた旧ガニメデ軍の掃海艇の物語である。
とはいっても、本書は湾岸戦争とは何も関係ない。本書が書かれたのはそれより以前であり、これもまた現実とSFの奇妙な一致というやつだろう。
さて、外惑星動乱も終結した。だが、掃海部隊にとっては、戦後も命がけの危険な任務が続く。破れたガニメデ軍の掃海艇艇長・田沢に対して、機雷封鎖された木星の衛星ヒマリアの秘密研究施設へおもむき、データを回収せよとの命令が下った。どうやらヒマリアでは戦争犯罪の疑いのある人体実験が行われていたらしい(〈航空宇宙軍史〉の読者なら、これがどのようなものだったか知っているはずだ)。また本書では並行して、ガニメデの旧軍人らによる、反航空宇宙軍地下組織の物語も語られるが、ここに現れるカミンスキイ中佐のその後も、われわれはすでに知っている。こうして、未来の歴史の、埋もれた断片が描かれていくのだ。歴史は人がつくる。だが、ここに描かれる人々は決してきらびやかな英雄たちではなく、重要ではあってもごく地味な、汗くさい男たちである。男たちの人間ドラマと物理法則のきびしさが、谷甲州の宇宙SFをリアルでストイックなものにしている。宇宙空間での掃海艇と機雷との戦い。それはものいわぬ機械と人間の戦いでもあるが、なんとすさまじく壮絶に、しかも淡々と描かれていることか。これは本当にすごい。
ところで、本書から表紙の絵が変わった。これまでのとずいぶんイメージが異なっていて、ちょっととまどってしまった。
自由軌道 ロイス・マクマスター・ビジョルド
八八年度のネビュラ賞を受賞した宇宙SF。解説にある通り、まさしくハイラインの往年のジュヴナイルSFを思わせる小説である。
舞台は遠い辺境の惑星の軌道上にある巨大企業の研究ステーション。主人公のレオ・グラフは、自由落下状態で溶接や建設をおこなう際の品質管理技術を教育するため、はるばる地球から赴任してきた。ところが、彼が教育すべき相手とは、このステーションでバイオテクノロジーにより生み出された、クァディーと呼ばれる子供たちだった。彼らは自由落下状態での作業に適応するように、足のかわりに四本の腕をもつよう遺伝子操作されていた。レオは知識欲旺盛で、明るく素直な彼らに、たちまち魅了される。ところが、彼らは会社の従業員としてではなく、備品として登録されており、特にステーションの責任者のヴァン・アッタにはひどい扱いを受けていた。そしてある日、自由を求める何人かのクァディーが事件を起こし、また彼らの存在価値を無にする新技術の開発があって、会社はこのプロジェクトを中止し、子供たちを廃棄する決定を下す。レオはそれを知り、秘密裏に彼らを救出する計画をたてる……。
ごらんの通り、自由への闘争をメインテーマにしたよくある話だが、主人公を中心とする人物の書き込みがしっかりしており、読みごたえがある。またいきなり武器をとって戦うといった展開ではなく、会社のプロジェクトの裏でもう一つのプロジェクトが同時進行するという、比較的閉ざされた現場での作業進捗のリアリティが感じられる物語となっている(土木SFといってもいい?)。書類上の数字しか見ようとしない企業の管理者をばかにし、現場の技術者や労働者を讃える、バブル以降の時代にふさわしいSFだ。
ヘミングウェイごっこ ジョー・ホールドマン
本書(の元になった中篇)は九〇年度のネビュラ賞とヒューゴー賞のダブル受賞に輝いている作品である。訳者あとがきにはネビュラ賞のことしか書いてないが、ついこの前の世界SF大会でヒューゴー賞もとってしまった。こういういきのいい作品が日本語ですぐに読めるというのは、とても嬉しいことだ。
本書とほとんど同時に書店に並んだマクドナルド・ハリスの『ヘミングウェイのスーツケース』(こういうのも偶然の同時多発現象なのだろうか)と同じく、一九二二年にリヨンで起こったヘミングウェイの未発表原稿消失事件を扱った小説である。本書では、この文学界のミステリーを元に、贋作でひともうけをたくらむヘミングウェイ学者とその妻、そしてプロの詐欺師がからまっての、コメディタッチのドタバタが繰り広げられる……とくれば、おお、これは面白そうなしゃれたコンゲーム小説じゃないか、となるわけだが、なかなかそうは単純にはいかないのがホールドマンのSFだ(面白くないわけじゃない――それどころかものすごく面白い!! この学者夫婦のかけあい漫才なんて、最高)。つまり、それにパラレルワールドがからむわけですね。普通、コンゲームというのはだます者とだまされる者の頭脳の戦いだから、論理性が重視されるわけだ。ところがSFのパラレルワールドがからむと、確固とした現実がなくなるわけで、ゲームとして成り立たなくなる。だから評者としてはこの点に関して訳者あとがきの、SFの部分は単なるジョークだという説には賛成できない。これはしっかりとSFしていると思う。時間線を守ろうとする存在が、どうして贋作の完成を恐れるのかの因果関係がわかりにくいが、そのヒントははっきりと書かれている。傑作だ。
一ダースまであとひとつ 山田正紀
一ダースまであとひとつ、ということで、十一篇が収録された短篇集である。
内容はSFあり、ミステリあり、日常的なものありでバラエティに富んでいる。SFにしても、実験的なもの、幻想的なものと様々だ。掲載誌が書いてないのでわからないのだが、いろいろな所に載ったものをまとめたのかも知れない。
前半にどちらかというと日常的な話がおさめられている。幽霊話、心理サスペンスなど、いわゆるちょっと不思議な話、といったものだ。これらの作品は、つまらないわけではないが、よくある平凡な物語で、とりたてていうことはない。ただし、新聞の投書欄を使ったミステリ仕立ての「しつけの問題」は、巧妙で意表をつく展開に(もっともよく考えれば疑問はあるのだが、とりあえずあまり気にならない)とても面白く読めた。新聞社の対応など、一部実話の部分もあるのかも知れない。推理マニアで投稿マニアの翻訳家というのが、なかなか楽しくて、好きだ。
後半はもっと本格的なSFと、作者自身の近況を描いたような作品、味わいのある時代小説、さらには実験的なSFという具合に、作品の振幅が大きくなる。このなかではビジュアルを加えた実験的なSF「追放船」が強く印象に残った。ファンごのみ、といわれるかも知れないが、ここにはSFの原点に返ったイメージが充満している。凝縮された大長篇宇宙SFという感じで、読み終わった後の余韻が心地よい。一方、巻末の「システムダウン」は、横書きで後ろから読ませ、パソコンソフトのマニュアルの形式で書かれている(図版入り)。形式としてはかなり凝っているのだが、内容はありきたりで、SF的な印象はというと、あとひとつだった。
渾沌の城 夢枕獏
夢枕獏の長篇SF。帯には「新伝奇ロマン」とあるが、この異常な設定は、はっきりSFといっていいと思う。ハードカバー上下巻の大作だが、すさまじい迫力でぐんぐん読ませるので、一気に読め、これでもまだ短いような感じがする。
夢枕獏の作品には大きく二つの流れがある。強烈なバイオレンスとドライブ感にあふれた描写でぐいぐい引っ張っていく伝奇ロマンの流れと、壮大な仏教的宇宙観に基づき、永遠の時間を意識させる神話的SFの流れと、乱暴にいってしまえばそういうことになるだろう。そして本書は、その両者が結合したものだといえる。(物語の性格から伝奇ロマンの方がややかっていることは確かだ。でも本書では、夢枕SFの宇宙観が、作品の背後というよりも、もっと本質的・中心的なところに位置している。時代伝奇小説を思わせる登場人物が、ハードSFもかくやという宇宙論を語り出す時、それは対数螺旋のひとつ上の階梯と照応しているのだといえるだろう)。
本書は織田信長の比叡攻めから始まる。続いて武蔵が登場し、金沢城の奥に秘められた陰謀と戦おうとする。読者がどきっとするのは、その武蔵の描写に、ぼろぼろのジーンズや古ぼけたスニーカーといった言葉が出てくる時だ。やがて、この異様な世界が過去ではなく、未来の日本だということがわかる。大崩壊後の日本に再び武士の世界が出現しているのだ。ここには、機械人やら突然変異した怪物やらが徘徊し、超技術の産物や超能力も存在する(うーん『未来忍者』みたい)。この設定はバイオレンスSFの舞台としても魅力的だが、それだけではなく、内容とも密接にかかわっているのだ。本書は一応完結した作品だが、もっと続きが読みたい。
バベルの薫り 野阿 梓
たとえば「ジャパネスクSF」という言葉で何を思い浮かべるだろうか。外人の目で見た、エキゾチックで誇張されたニッポン。SFでいうなら、スチャリトクルの作品などが代表となる、いわゆる〃変なニッポン〃である。それが日本人の手による、となれば、さすがに自虐的な笑いの対象ではなくなるが、強調されるのは、やはり誇張された日本文化の特徴である。具体的に評者が思い浮かべているのは、小松左京や豊田有恒の作品だが、未来のグローバルな世界に身をおいてニッポンというものを見る時、その視線が外部のものと重なるのは、ある意味で当然だろう。
ここに新たに、日本人作家の手によるジャパネスクSFがある。「日本」というものを異化し、SFの対象とするため、作者は主人公を宇宙生まれの日本人に設定した(だがこの視点は、本書の後半では格下げされてしまう。用済みになったということだろうが、読者としてはとまどう部分である)。そして、ここでいう「日本」とは、まさに天皇制そのものを意味している。本書はSFでもって天皇制を論じようとする、きわめて意欲的なテーマをもった作品なのである。
このため作者は、日本の軍国主義が復活し、かつての革命中国を思わせるハノイ連邦と覇権をきそっている、まるで戦前のような世界を構築した。月のネオ上海は戦前の上海そのものであり、かつブレードランナーのLAでもある。テロと謀略と危険な美があふれる、ロマンティックな世界。登場人物は美男美女ばかり(作者の趣味!)。だが、作品の雰囲気は、月面から地上に降りることによって、大きく変わる。学園ものというと少し違うが、世界から切り離され、閉鎖された領域での物語となる。ストーリーのレベルでいうと、本書は、日本政府に敵対し、学園都市「井光」を支配する邪悪な存在〈アララギ〉(親玉はすさまじい霊能力をもつ妖艶な美女、その弟の美少年、彼らを守る謎の一族)と、スペースコロニー〈ミマナ〉出身の霊能力をもつヒロイン(美人でとても強くて、皇道主義者!)および彼女と行動を共にする少年との、霊的な闘争の物語である。心霊コンピュータとかのガジェットも登場するが、あまり重要ではない。この戦いは、なかなかの迫力でもって描かれているが、地上に降りてからは、霊能力が主役になるため、かなりタッチが異なっている。評者としては、前半の世界構築が面白かっただけに(でも戦前の上海そのものなのは、パロディぽくっていやだという人はけっこういるだろうな)、世界が縮小してしまったのが残念だった。ストーリーだけ見ると、こういうのってヤングアダルトものによくあるじゃないですか。さらに残念なのは、終盤で主人公が変わってしまうことだが、そのきっかけには強烈な性描写があるので、まあ理解できないわけではない(それが異界へのイニシエーションとなっているのだ)。でもこの展開は不満だなあ。
物語としてのバランスを崩してまでも作者が力をいれているのが、最初に述べた日本および天皇制に関する思考実験である。このため、本書のかなりの部分が、登場人物たちによるディスカッションで占められている。これはしかし、本書の欠点とはなっていない。議論の中身は興味深く、刺激的である。ここで詳しくは書けないが、免疫システムとのアナロジーを用い、なかなか説得力のある議論が展開されている。天皇制といってもぴんとこない人は、昭和天皇が亡くなった時の、あの異様な雰囲気を思い出してほしい。
癖のある文体といい、物語上の欠点といい、好き嫌いは分かれるだろうが、本書は日本SFの貴重な収穫といえる作品である。
THE ALLURE 蠱惑 リチャード・コールダー
イギリスの新鋭作家リチャード・コールダーの、「トクシーヌ」「モスキート」「リリム」「アルーア」の四篇を収録した日本オリジナルの短篇集である。本国でもまだ単行本は出ていない(はず)なので、本書が彼の単行本デビューとなる。こういうのって、やはり感慨深いものがありますねえ。
四篇は必ずしも連作というわけではないのだが、テーマや背景は共通していると考えられる。一口にいえば、フェティシズム、人形愛、といったところだろう。しっかり倒錯しています。でもヨーロッパのファッション雑誌みたいに、上品で、美しい。それを、サイバーパンク的に、テクノロジーが生身の人間とそうでないものとの境界を曖昧にした(本書ではナノテクノロジー――生物と無生物の境界上で働く極小のテクノロジー――がキーワードだ)と捉えることもできるだろう。衣服へのフェティシズムも人形愛もそういう文脈で見ることができる(その時、本書は紛れもないSFとなる)。「モスキート」が持つ衝撃力は、性倒錯が世界と関わる(なにしろ人種間戦争の切り札となるのだから)ところにあった。舞台が未来のタイであることから、エイズ問題を逆照射するという効果もある。
とはいうものの、四篇を続けて読むと、そういうSF性というものは、この作家の場合、本質的ではないのではないかと思えてくる。生身の人間を人形に変えるという(古典的ホラー!)「トクシーヌ」はもちろん、ナノテクに〃感染〃した異種族と人類の関係を描く、本来なら最もSFらしいはずの「リリム」ですら、その視点はSFと異なるところにある(それが悪いというわけじゃないよ)。ただ〃衣服SF〃の「アルーア」には、他と違ったタッチがあって面白かった。
メルサスの少年 菅浩江
新潮文庫のファンタジーノベル。ファンタジーとSFの違いがどうのこうのと、ここでややこしいことをいいません。でもごく単純にいって、本書はSFです。
舞台は(たぶん)遥かな遠い未来の地球(かどうかはわからないのだが)。荒野に囲まれた〈螺旋の街〉と呼ばれる(おそらく過去の文明でシェルターとして作られた)街。そこは異形の女たちだけが住む、娼婦の街なのだ。彼女たちはそれまでの人生を捨ててこの街に来る。街の地下にある〈昼の野原〉でラーファータと呼ばれる動物の乳を飲んで暮らすうち、それに含まれる成分の影響で(ナノテクの産物?)やがて変態をとげ、様々な動物の特徴をもつ〈メルサスの女〉として生まれ変わるのだ。物語はこの街にたった一人生まれた男の子を主人公に、この街に逃れてきた予言者の孫娘、彼女を追う「トリネキシア商会」(過去の文明の技術や兵器を復活させ世界支配を狙う連中)、その陰謀と戦う男たちを巡って展開する。だが、小説の舞台はほとんどこの街を出ることなく、中心にあるのは主人公の少年の成長と発見の物語だ。結末がやや駆け足になるのを除けば(これがちょっと残念なところだ)、物語の時間は日常のものである。とりわけ少年の目で見た街や女たちの書き込みが美しい。
SFファンにとっての本書の特別な魅力は、謎の多いこの世界の成り立ちを、ごくさりげなく出てくるわずかな言葉から想像できることにある。この世界にいたる未来史をこれらの断片から再構築するのは、読者の楽しみにとってあるのだ。作者はそれができるだけの、しっかりしたSF的設定を用意してある。とりわけラーファータの存在がいい。この未来史に属する別の作品も読みたいものだ。
遥かなる賭け メリッサ・スコット
女性作家による、遥かな未来の銀河を舞台にしたスペースオペラ。ところがいきなり時代錯誤な帝国貴族たちの陰謀劇が展開するので、あらあらとなってしまう。たぶん最初の十ページほどで投げ出す読者もいるだろうな(ファンタジーなら許すが、SFではイヤという読者は結構多いはずだ。おっと、じゃあ〈銀英伝〉のファンはどうなるって? それは……)と思いつつ読んでいると、これがどうして、だんだんSFしてくるんですね。
大銀河帝国と思えたのは、実は銀河辺境のささやかな帝政国家。地球人類の主流は〈連邦〉として別にある。この〈帝国〉がいずれは活力を失って主流の文明に吸収されるだろうという、大きな歴史の流れがある。物語の中心は、崩御した女帝の後継に指名された主人公が、他の大貴族たちの間でその地位を現実のものとするための陰謀と戦いだ。これがなかなか絢爛豪華な宮廷劇として描かれていて、読みごたえがある。そしてSFとして興味深いのは、貴族たちのもつべき特殊な〈能力〉が重要な役割を果たしていること(これは直感による未来予知のようなものだ。だが超能力とは違い、状況を総合的直感的に判断しての予測にすぎないから、不確実なものである)とか、〈協約〉によって厳しく規制されている社会制度、そしてゲームやシミュレーションが非常に重要視されている(これはもちろん〈能力〉とも関係してくる)といったことだ。帝国の後継者争いからついに宇宙戦争も起こるが、この淡々として緊迫感のある描写もいい。後は、大時代な宮廷劇が楽しめるかどうかだろう。
巻末に宇宙戦争を考察したC・J・チェリイのエッセイがあり、初歩的だが面白い。でも本書の内容とは関係ないみたいだ。