神林長平 『グッドラック 戦闘妖精・雪風』 解説

 大野万紀

 
 ハヤカワ文庫
 2001年12月15日発行
 (株)早川書房
 ISBN4-15-030683-4 C0193


我は、我である

 本書は1984年に出版された『戦闘妖精・雪風』の続編であり、92年から99年にかけて〈SFマガジン〉に掲載され、加筆訂正されて99年にハードカバーで発表された『グッドラック 戦闘妖精・雪風』の文庫版である。作者、神林長平の、まさにライフワークというにふさわしい作品である。

 これは異星の敵と戦う戦闘機とパイロットの物語だ。ほとんどそれだけのために特化されたような舞台設定があり、社会や人間のドラマはその背景にすぎない。戦争という極限状況の中での、クールなメカと運命を共にする主人公の、フェティッシュなともいえる共生関係が描かれる。しかし、ここで描かれるのは普通の意味での戦争ではない(本書ではそれを〈生存競争〉と呼んでいる)。またメカの描写はマニアをもうならせるものだが、本書の魅力はそれに尽きるものではない。ここには知性とは何か、コミュニケーションとは何かという大きなテーマが存在しており、それこそ著者の繰り返し追求しているテーマでもある。本書は自己と他者の認知に関わる深い思索を込めた、究極の思弁的SFでもあるのだ。

(注)以下、前作『戦闘妖精・雪風』の内容にふれますので、未読の方はご注意下さい。そもそも本書は『戦闘妖精・雪風』の続編なので、前作を読んだ後でお読みになることを強くお勧めします。

 南極大陸、ロス氷棚の一点に、直径3キロの霧の柱が現れた。それが〈通路〉である。地球はこの超空間通路を通って飛来した謎の異星知性体〈ジャム〉に侵攻された。しかし、人類は地球防衛機構を設立し反撃を開始する。〈通路〉の向こうにあったのは未知の惑星〈フェアリイ〉だった。人類はここに基地を建設し、それから30年にわたるジャムとの長い戦いが始まった。
 戦いの主役はフェアリイ空軍(FAF)である。フェアリイ星の基地には、現在のジェット戦闘機がそのまま進化したような、高度な電子頭脳を搭載した戦闘機〈シルフィード〉が配備されている。さらに、FAFには偵察や情報収集を任務とする〈特殊戦〉という組織があり、シルフィードをさらに改良し、コンピュータを強化した〈スーパーシルフ〉が配備されている。スーパーシルフの人工知能は、基地の戦術/戦略コンピュータ群と同様、独立した意識をもつ人類とは別の知的生命ともいえる存在である。
 特殊戦の任務は生き残って情報を持ち帰ることであり、必要とあれば味方を見殺しにすることも辞さない。このため、そのパイロットたちには非情で冷徹な、ある意味常識的な人間性から逸脱したパーソナリティが要求される。彼らは普通の人間というより、戦闘機械のパーツであり、スーパーシルフと一体となって戦う有機系コンピュータなのである。
 前作『戦闘妖精・雪風』では、特殊戦のスーパーシルフ〈雪風〉と、そのパイロット、深井零の物語が描かれる。特殊戦にふさわしく、対人コミュニケーションに問題があり、心を通わせるのが上官のブッカー少佐を除けば雪風のみという深井零だが、それでも戦いの中で徐々にこの戦争の意味を見つめ直し始める。ひとことでいえば、この戦争は人類とジャムの戦いではなく、人類の作ったコンピュータとジャムとの戦いなのではないかということだ。では、その中で人類の存在とはいったいどういう意味をもつのか。
 この疑問はジャムにとっても重要な問題だったようだ。ジャムには人間というものが理解できないようで、それを確認するためか、微妙に戦術が変化してくる。前作ではついに人間の複製を作り出すまでになった。零も彼らに捕らえられた。このことが本書ではさらに発展し、物語の重要なポイントとなっている。
 前作の最後で、雪風は破壊され、その意識ともいうべき中枢データは最新鋭の戦闘機FRXに転送される。そして、本書は生まれ変わった雪風と、深井零の物語である。

 有人か無人かという議論がある。極限的な状況において、人間系は無駄であり不要なものだという議論である。人間を乗せるためには、生命維持のための様々な制約や付加条件が加わり、機械の性能を最高度に発揮することができない。費用対効果の面でも不利となる。例えば宇宙の科学探査という目的には、有人宇宙飛行をひとつするより、無人宇宙船をたくさん飛ばす方が効率的で効果も大きいというものだ。それに対して、いや、何か異常な状況が発生したとき、最終的にはどうしても人間の判断が必要であるという意見がある。現在の技術水準ではロボットやコンピュータの能力に限界があるため、これまた現実的で納得のいく意見である。しかし、ここには機械にはまかせられないという感覚と、やはり人間が(すなわち自分が)現場に関与したいという本質的な気持ちとがからんでおり、仮に人工知能が高度に発達したとしても同じ議論が続くことだろう。本書でも「この戦いには人間が必要なんだ」と深井零は主張する。それはだが、人間が機械より正しい判断をするからではなく、ジャムには理解できない、非論理的な行動をとることができるからである。敵であるジャムに理解されてしまうとき、人類は敗北する。それは情報こそがこの戦争の本質であるからだ。情報、コミュニケーション、インタフェース、それがこの物語の中心テーマなのだ。

 ジャムはフィリップ・K・ディックのいうアンドロイド、シミュラクラのようなものかも知れない。よく似ているが、根本的に異質なもの。雪風のような機械知性も人間とは異質だが、それは理解可能なもの、わかりあえるものとされている(実は人間側の錯覚にすぎないのかも知れないが――でも零は雪風を信頼することができる)。だがジャムとは心を通じ合わすことはできない。チューリングテストをしたならば、ジャムはどこかで失格するだろう。コミュニケーション不能こそがその存在形態なのだから。「我は、我である」というジャムのことばからは、人間をシミュレーションすることはできても、どうしても人間とわかりあうことのできない存在の、絶望的な異質さが感じられる。
 スタニスワフ・レムの『砂漠の惑星』も、人間的なコミュニケーションのできない異質な敵との戦いを描いていた。だが、レムの敵はあまりにも異質で、そもそもコミュニケーションが可能とは思えない。神林長平の作品では、相手は異質な存在であっても、何らかのインタフェースは存在している。そしてそのインタフェースとは、すなわちコトバである。ジャムと人間との間には雪風のような機械知性があり、あるレベルまでは翻訳が可能なのだ(その先のレベルで意志疎通できないことが、よけいに異質さを強調することになるのだが)。そして神林長平の作品には、相手をそういうものだと理解、いや理解はできないまでも納得したうえでの、ユーモア感覚が存在する。登場人物たちも(まあ普通の人間とはいえないだろうが)、相手に対して一方的におろおろしたりはしないのだ。
 深いテーマを扱い、人間性の欠如したような人物ばかりが登場し、簡潔な、情感を排除した文章で描かれる物語であるにもかかわらず、本書がエンターテインメントとして面白く読めるのは、こういった登場人物たちの、世界に対する余裕と、そこはかとないユーモア感覚に負うところが大きいだろう。われわれは彼らにも、そして雪風にも、感情移入することができる。フェアリイ星の空を駆け、コックピットに表示される簡潔な文字列に雪風の意志を読み、壮絶な戦いの緊張感を感じることができる。これは「読む」という行為によるコミュニケーションなのだ。

 この文章を書いている今、われわれの日常とは別の次元で現実の戦争が進行している。それはまるでフェアリイ星の戦争のような非現実感を伴っている。現実のテロリストをジャムのようだということはできない。しかし、コミュニケーションの不全が根本にあるこの戦争を見ていると、本書との関連を考えざるをえないのである。深井零は、人間同士の戦争など「興味がない」というのだろうけれど。

2001年11月


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