バリントン・J・ベイリー/大森望訳
『時間衝突』 解説
大野万紀
創元推理文庫
平成1年12月22日発行
(株)東京創元社
COLLISION WITH CHRONOS by Barrington J. Bayley
(1973)
ISBN4-488-69701-1 C0197
時間線がいっぱい
――時間の本性に対するわれわれの見方が時代とともにどう変わってきたか、それをこれまで見てきた。今世紀はじめまでは、絶対時間が信じられていた。つまり、どのできごとにも、〃時刻〃と呼ばれる数値のラベルを一意的に貼ることができ、正常な時計はすべて、二つのできごとの時間間隔について一致するはずだというのである。しかし、すべての観測者にとって、彼がどんな運動をしていようと光速は同じに見えることが発見され、相対性理論が生みだされた――この理論の導入によって、一意的な絶対時間があるという考えは放棄せざるをえなくなった。各々の観測者は絶対時間のかわりに、そのたずさえている時計で測られる独自の時間尺度をもつことになった。異なる観測者のたずさえている時計は、かならずしも一致する必要はない。時間はこのようにより個人的な、それを測定する観測者にとって相対的な概念となった。
重力と量子力学を統一しようとするときには、〃虚時間〃の考えを導入しなければならなかった。虚時間は空間の方向と区別できない。空間では、北に進むこともできれば、回れ右をして南に向かうこともできる。これと同じく、虚時間は前向きに進むこともできれば、回れ右をして後向きに進むこともできる。これは虚時間の前向きと後向きの方向の間には、重大な差異がないことを意味する。一方、〃実時間〃をながめると、前向きと後向きの方向の間には、だれでも知っているように非常に大きな違いがある。過去と未来のこの違いはどこから生じたのだろうか? われわれは過去を憶えているのに、なぜ未来を思い出せない のだろうか?
スティーヴン・W・ホーキング『ホーキング、宇宙を語る』林一訳より
本書はイギリスのSF作家、バリントン・J・ベイリーの一九七三年の長篇 Collision with Chronos (アメリカ版では Collision Course )の全訳である。邦訳されたベイリーの長篇としては四作目にあたるが、発表年代は最も古いものである。本書と、その後に発表され邦訳もある『時間帝国の崩壊』The Fall of Chronopolis (1974)の二作は、いずれも時間に関する壮大なSF的架空理論をメインテーマとする、ワイドスクリーン・バロック型のSFだ。とりわけ、本書のとてつもない時間理論には、相当年期の入ったSFファンといえども、開いた口がふさがらなくなるのではないだろうか。何しろ、二つの時間線どうしが正面衝突するというのだから!
時間線が衝突する? いったい何のこと? こう思ったあなた、正常です。ははあ、タイムトラベルを前提に、二つの時代にわかれて存在する帝国どうしが戦う話だな。そう思ったあなた、SFマニアです。『時間帝国のい崩壊』は確かにそういう話だった。
本書はもっとすごい。なにしろ、文字どおりに時間線どうしが正面衝突するのだから。でもその話をする前に、ちょっとおさらいをしておこう。
時間をテーマとするSFは多い。しかし、時間とは何かということを、真剣に考察して書かれたSFはさすがにそう多くはない。タイムトラベルやタイムパラドックスの面白さを追求したものが大半で、それをもっともらしく見せるために、平行宇宙やタキオンといった概念を取り入れたというものが多数をしめる。時間をもっと思弁的に扱ったものとしては、フレッド・ホイルの『10月1日では遅すぎる』(ハヤカワ文庫SF)、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』(ハヤカワ文庫SF)、ジェイムズ・ホーガンの『未来からのホットライン』(創元推理文庫)などをあげることができよう。またこれらと傾向は異なるが、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』も時間論をテーマとしたSFとして読むことができる。このように、時間論を正面から扱うSFが少ないのは、それがどうしても難解になってしまうからだろう。先にあげたような作品はそのあたりがうまく解決されていて、SFとしても大変面白く読めるように書かれている。
さて、それでは本書はどうか。
先にあげた作品がいずれも真面目でリアルな読後感のある(ヴォネガットはちょっと違うが、それでもその背後にはシリアスな問題意識がはっきりと見える)作品であるのに対し、本書はそういう(SF的な)リアリズムとは一線を画している。ひとことでいえば、ばかばかしいまでのイマジネーションというところか。これはベイリーの作品すべてについてもあてはまるし、一般にワイドスクリーン・バロック型と呼ばれるSFについてもあてはまる。アイデアがまず第一にあるのだ。物語はそれをひきたたせ、説明するためにある。登場人物も重要ではない。そんなところに興味はないのだ。また、そのアイデアのすごさを科学的な言葉で語ることはあっても、厳密な意味での科学性は重視されない。アイデアのすごさとはむしろ審美的なものだ。この種の作品において、美しいアイデアを成立させるためならば、多少の論理的矛盾は取るに足りないものとなる。したがって、同じようにアイデアを重視しても、いわゆるハードSFとはずいぶん異なっている。このことからも、ワイドスクリーン・バロックが、成功させるのに難しいものだとわかるだろう。一歩間違うと、本当にばかばかしい、読むに耐えない作品となってしまうのだ。ワイドスクリーン・バロック型のSFには、SFファンの心をそそる魅力がある。けれど、それが書けるのは本当に少数の作家だけなのだ。ベイリーは間違いなくその一人なのである。
ベイリーはアイデアにこだわる作家である。本書ではそのアイデアとは時間の本質に関する観念的な思索である。ある意味で、彼の思索はアマチュアっぽく、科学的というよりもオカルトや疑似科学の雰囲気がある。でも、そこにうさんくささはない。彼はそれを読者に信じろといっているわけではないからである。彼はそれを笑って読みとばすことのできるSFとして書く。しかし、その思索は本物である。たとえ科学的には矛盾があっても、ベイリーは様々な書物を自分で読み、自分で理解し、自分で考えてアイデアを構築するのである。そこらの科学解説書をひきうつして、科学者の語る新しいアイデアをつまみ食いするようなSFより、はるかにサイエンス・フィクションだということができるだろう。そして、これは偶然なのかも知れないが、ベイリーが直感的な思索によって構築した時間理論は、本当の科学者たちが到達しようとしている時間理論と、少なくともその表面的な姿においてずいぶんと似ているのである。冒頭にあげたスティーヴン・ホーキングからの引用にもそれは現われている。もちろん、時間について、科学的にこれが正解だという完成した理論があるわけではないだろう。だが、現代世界最高の理論物理学者の一人であるホーキングのいうことには傾聴する価値があるはずだ。ホーキングによれば、物理的な時間には過去と未来に本質的な差はない。しかし、宇宙論的な時間には過去のビッグバンから未来へと向かう方向がある。そしてわれわれが意識する時間(因果律的な、すなわち熱力学的な時間)にも方向がある。その方向とは、決して絶対的なものではなく、人間原理によって、いいかえれば、今たまたまここにわれわれが生きていることによって、そのように観測されるものなのである。
本書に描かれたベイリーの時間論はより直感的で、厳密さには欠けるものである。けれども、時間の方向というのがその中に生きる生物の意識によって決定されること、過去や未来の時間はいわば死んだ時間であり、そこには生物の意識は存在せず、因果関係もないこと(したがって、タイムパラドックスなんてものは初めから存在しないのだ)、生物の意識が存在できる瞬間が〃現在〃であり、それが生きた時間の波となって物理的時間の上を進行していくこと――こういったイメージはSFに支配的な安易な平行宇宙的時間論よりも、はるかに刺激的だといえる。そこから逆方向に進行する二つの時間線の衝突というとんでもないアイデアが、それなりにもっともらしく理解されるのである。まあ、それにしても、時間が〃斜め方向に〃進む〈斜行宇宙〉だとか、そういう勝手な方向に進むローカルな時間線がこの宇宙に無数にあるなんて考えになると、ちょっとついていけなくなるのだが。もっとも、このあたりになるとベイリーお得意のブラック・ユーモアと解釈した方がいいのかも知れない。
本書をはじめとする時間理論SFを書くに当たってベイリーが参考にしたというJ・W・ダンについて、わかる範囲で書いておこう。ジョン・W・ダンは今世紀前半に活躍したイギリスの航空技師(イギリスで最初の軍用機を設計した)であり、哲学者である。彼の時間論を中心とする哲学的な著作は当時ベストセラーとなったらしい。もっとも、その内容は予知夢の研究から心と時間の関係を考察するといったものらしく、いささかあやしげな印象を受ける。ただ、その中でベイリーが影響を受けたと思われる点がいくつかあり、その一つが本書でも議論されている〈回帰問題〉である(こういう言葉が使われているのかどうかは知らないが)。これはかのニュートンにまでさかのぼるパラドックスだ。ニュートンの定義した絶対時間とは、具体的な出来事とは無関係に過去から未来へと一様に流れる時間である。問題は「一様に流れる」ということで、時間が〃流れる〃スピードを考えるならば、それはこの時間より一つレベルが(次元が)上の時間を考えねばならなくなる。そうすれば、さらにその上の時間を考える必要があり、同様にして一つずつ高次に上がっていく無限の時間の系列を考えねばならなくなる。ダンはこの問題を超越者の存在とからめて論じたらしいが、ベイリーは中国の仙人みたいな赦博士に「宇宙は全体として、時間を持っていないということだ」などと語らせてわれわれをけむにまいてしまうわけだ。
本書に描かれたアイデアは確かに難解だ。しかし表現されたそのイメージは強烈で、理屈ではなく感覚的にわかった気にさせる。そしてSFの根元的な面白さに満ち満ちているのである。「マニアのアイドル」ベイリーではあるが、ぜひマニアでないあなたにも読んでいただきたい。だって、面白いんだから!
バリントン・J・ベイリーは一九三七年にバーミンガムに生まれた。様々な職業についた後、五四年にSF作家としてデビュー。本格的な長篇を書き始めたのは七〇年代に入ってからで、初めはあまり注目されなかったが(主として通俗スペースオペラ中心の叢書から出版されたので)やがてシリアスなファンや批評家の目に止まり、熱狂的といっていい評価を受けるようになった。わが国でも短篇集を含めてすでに四冊の翻訳が出ているが、いずれも高く評価されている。これからももっと訳されてほしい作家である。
●バリントン・J・ベイリー著作リスト
1989年11月