キース・ロバーツ/越智道雄訳
『パヴァーヌ』 解説
大野万紀
サンリオSF文庫
1987年6月25日発行
(株)サンリオ
PAVANE by Keith Roberts (1968)
ISBN4-387-87037-0 C0197
本書は一九六八年に出版されたキース・ロバーツの二作目の単行本であり、IFの世界ものの最高傑作の一つとされる Pavane の全訳である。ロバーツの短編はこれまでいくつか訳されてはいるが、単行本としては本書がわが国への初紹介にあたる。
待ちに待った、というのが古くからの海外SFファンの偽らざる心境だろう。多くのSFファンが本書の存在を初めて知ったのは、一九七〇年五月号のSFマガジン誌に掲載された伊藤典夫氏の「SFスキャナー」欄によってだった。氏はここで、イギリスの新鋭SF作家として本文庫で『人生ゲーム』が訳されているD・G・コンプトンと、本書の作者キース・ロバーツの二人を取り上げ、『パヴァーヌ』について、いかにも読者の期待をそそるような紹介をしたのだった。ちょっと引用してみよう。
……歴史が過去のある一点において別の方向に動きだし、ぼくらの周囲にある現代とはまったく異なる世界が生まれる――いわゆる改変された世界(オルタネート・ワールド)テーマの小説は、SFではいっこうに珍しくない。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』、小松左京の『地には平和を』、豊田有恒の『モンゴルの残光』……未紹介の傑作もまだかなりある。
しかし、この『パヴァーヌ』は、新人キース・ロバーツの代表作という意味だけでなく、イギリスSF界の稀に見る収穫の一つとして、ぜひとも紹介しておかねばならないだろう。なぜなら作者は、その異様な別世界とそこに住む人々の姿を、そんな世界が実在し、彼らが実際に生きているかのように(秀逸なアイデアを各所にちりばめながら)情感こめて描くことに成功しているからだ。
……キース・ロバーツの筆力は、以前処女作の The Furies (1966)を息もつかせず読んだことがあるので、その点は安心していた。……だから『パヴァーヌ』を読むときも心配はなかった。問題は、オリジナリティである。処女作は月並みな侵略ものだったが、今度は月並みなオルタネート・ワールドものか、と思って読みはじめたのだが、それはまったく見当違いだった。……けっきょく問題になるのは作者の持味である。その小説世界が、彼だけにしか表現できないものになっており、しかも読者がそれを生き生きと体験できるなら、もはやそれが古くさいアイデアのバリエーションであろうとなかろうとどうでもいいことなのだ。
『パヴァーヌ』は、まったく新しいファンタジイ・ワールドをあらゆる細部までみごとに構築した、SFのなかでもきわめて稀な小説なのである。
ぼくがロバーツの名を知り、興味を持ったのも、この伊藤さんの紹介記事がきっかけだった。当時、多くのSFファンが指針としていた伊藤さんのスキャナーで、ここまで持ち上げられた作品というのも珍しい。これは傑作に違いないと、誰しもが思ったはずだ。ぼくが実際に本書を手にいれたのは、それから何年も後だったが、その期待は全く裏切られなかったといえる。まさにスキャナーに書かれていた通り。そこにあったのは、ぼくがそれまで知っていたSFともファンタジイとも微妙に異なる、新しい読書体験だった。
SFにしろファンタジイにしろ、そこに描かれた架空の世界が現実とのチャンネルを持たない限り、それは逃避文学とのレッテルを貼られても仕方のないものだといえる(それはそれで一向にかまわないのだが)。ところが本書に描かれたもう一つのイギリスは、ファンタジイ・ワールドではなく現実の、まさにもう一つのイギリスそのものだった。単に人物がリアルに描かれている、といったレベルを越えて、しっとりと湿った丘の緑、どんよりとした雲、空気の臭い、石壁の冷たさ、蒸気機関の力強さ、少女の瞳の輝き、そういったありとあらゆるものが、間違いなしの本物だった。それと同時に、ここにはSFやファンタジイでしか描けないような、個人の視点を越えた、グローバルな認識があった。科学技術と人間、宗教、歴史といった問題に対する思弁があった(特に科学技術の問題に関しては、七〇年代に入ってから公害問題を契機に発表された多くのオルターナティブ・テクノロジーをテーマとするSFよりも先んじ、より冷静で深い考察がなされているように思う)。
伊藤さんのスキャナーでは、本書の内容があまりにイギリスの風俗に密着しすぎていて日本の読者には受け入れられにくいのではないかとの危惧が表明されている。しかしおそらくそんなことはないだろう。個人的な話になるが、ぼくの場合は、本書を読んでそれまであまり関心のなかったイギリス(とりわけドーセット地方)への興味が増大し、写真集を捜したり、トラディッショナル・フォークのレコードを集めたりという副作用が生じたほどである。雰囲気に浸れるのはとても気持ちがいい。クラシックでもいいかも知れないが、本書のアメリカ版の扉には「ライク・ウェーク・ダージ」という古いイギリス民謡が引用されているので、ここはぜひペンタングルあたりをBGMにしていただきたい。余談だが、この「ライク・ウェーク・ダージ」というのはキリスト教以前の宗教に関係する歌で、本書の内容にはぴったりだ。
さて、本書の内容に関していくつか補足しておきたい。まず、絶大な力を持つカトリック教会によって科学技術の進歩が抑制された世界が描かれているわけだが、ここにはあり得たかも知れないもう一つのテクノロジー、蒸気車、信号塔、印刷技術などがきわめて迫真的に描写されている。中世的な世界を描きながらファンタジーとは(また歴史小説とも)明らかに異なった印象を与えるのは、こういった技術的ディテールの描写による。これら、現在のわれわれから見ていくぶんノスタルジーを誘うような、等身大の職人的なテクノロジーを描く時、ロバーツの筆は冴え渡っている。ロバーツのこういった技術へのこだわりは、本書以外の他の作品にもうかがうことができるが、風景描写だけでなくこういった点にもいかにもイギリス的な雰囲気が感じられる。人間と機械とが汗を流して格闘し、理解と一体化が得られる。ブラックボックスは何もない。こういう時代が確かにあったのだ。もちろんロバーツはそれを単にノスタルジックに礼賛しているわけではなく、その裏面についても描写している。すなわちこういった技術の背景には、人の命が安く、自由な情報の交換がなく、厳格な階級制度の敷かれた社会があるというわけである。
ここで技術史的な側面にも少しふれておこう。鉄道網が行き渡る以前、レールを使わない蒸気車が一九世紀半ばのイギリスで広く使われていたことはよく知られている通りだが、電信が普及する以前に、本書に描かれたような信号塔が実際に使われていたことはあまり知られていない。一八世紀の終わりに、フランスのシャップが発明したセマホールと呼ばれる信号塔がそれである。本書に書かれているのと同様、腕木を操作してそれを望遠鏡で読み取り、次々に中継していくというものだ。このセマホールは革命下のフランスで時々刻々の戦況を伝えるのに活躍し、国中に通信網が建設された。同様のシステムはイギリスでも張り巡らされ、電信網に取って変わられるまで大いに栄えたのである。今や失われた技術ではあるが、当時地中海から大西洋まで情報を送るのにわずか三分しかかからず、これ以上高速な遠距離通信の手段はないといわれるぐらいの、完成したシステムだった。通信手法(プロトコル)も発達し、本書で描かれているように同時に二方向の通信を送ったり(全二重通信)、暗号化したり、誤り訂正用の符号を設けたりといった、現代のデータ通信でおこなわれているようなことがほぼ実現されていたようだ。セマホールということばもコンピュータ用語(セマフォー)となって今に残っている。本書で描かれた技術が迫真的なのは、それがあり得たかも知れないもう一つの技術であると同時に、われわれの過去に実際にあった、本当の技術に他ならないからなのである。
本書の中でのテクノロジーの描き方についてもう少し述べよう。テクノロジーというのはもちろんそれだけで独立したものではなく、社会や思想と切っても切れない関係にあるものである。したがって本書の世界ではテクノロジーが遅れているという言い方は正しくない。自由や人権に対する考え方、社会構造、遅れているとすればおそらくそっちの方である。ここに描かれた風景は現実のわれわれの世界でも、場所さえ変えれば今でも見られるものなのだ。むしろ本書の中には、テクノロジーの自走性というSFでおなじみのテーマが隠れている。産業革命こそ起こらなかったが、人間が本性として持っている進歩への欲求のようなものが、百年や二百年の時間差はあっても徐々に実を結んでいく。強権でブレーキをかけることはできても、それをコントロールしたり、止めたりすることは結局できないのだ。そして逆にそれらのテクノロジーが世界のあり方を変えていく。こういった議論は本書の中ではほとんど表面に出てこないが、物語の背後にはしっかりと存在しているのだ。いささか古めかしいテーマかも知れないが、テクノロジーに飲み込まれ変革されてしまった人々を、突き放した視点から描くSFが多くなってきている今日、改めて深く考察するに値するテーマだといえよう。
さて、テクノロジーに関する議論に集中してしまったが、本書を読みごたえあるものにしているのは、何といってもそのしっとりとした情景描写と生き生きとした登場人物たちにある。とりわけ、ロバーツの作品の特徴として、若くて活発なヒロインの活躍があげられる。本書ではマーガレットやエリナーがそうだ。暗くなりがちな物語を明るくはなやかにしてくれる、魅力的な彼女たち。因習にとらわれず、権力に媚びず、堂々とした彼女たちの活躍が、緩やかなパヴァーヌを素晴らしいコーダへと導くのだ。
もう一つ本書で重要な要素となっているのが、いかにもファンタジイ的、あるいはSF的な「古き者たち」の存在である。これは本書に俯瞰的な視点を与え、リアルな日常描写から突然われわれを神話的な高みへと運んでくれる。これこそ本書の世界の現実とわれわれの現実とをつなぐチャンネルであり、物語を相対化し読者に呼びかける内なる声なのである。この「妖精たち」は普通のファンタジイのような、あちら側の世界に日常的に所属する存在ではない。あちら側の世界でも異質なものであり、むしろ二つの世界をまたがるメタ存在なのだ。ロバーツの描く物語の中で、彼らは古い神々の姿をとることが多い。それはイギリスの大地に宿る神々であり、それゆえそこに繰り広げられる歴史がこちらと違っていても、それもまさしく同じイギリスだということができるのである。
キース・ロバーツは一九三五年生まれ。SF作家としてだけでなく、イラストレーターとしても知られている。長年広告業界に携わり、SF界にデビューしたのは一九六四年のことだった。デビュー作は可愛い魔女の少女が活躍する短編 "Anita"で、これは後にシリーズ化され連作短編集 Anita (1970) にまとめられた(その中の一篇「ティモシー」は邦訳がある)。六六年には初めての長編 The Furies を発表。これはジョン・ウィンダムを思わせる迫力満点の破滅SFだった。次に発表された二冊目の単行本が本書であるが、本書に収録されたエピソードのいくつかはSFインパルス誌に短編として掲載されたものである。そのSFインパルス誌の編集をロバーツは六六年から翌年にかけておこなった。この雑誌は以前のサイエンス・ファンタジイ誌が改題したもので、Anita や The Furies もここに掲載されていたし、その表紙絵も彼が担当していたという、ロバーツにとってはふるさとのような雑誌である。このころの彼は多くの短編を執筆したが、後にいくつかの短編集にまとめられている(Machines and Men (1973), The Grain Kings (1976), The Passing of Dragons (1979)。)邦訳されているものに「スーザン」(アリステア・ベヴァン名儀1965)、「深淵」(1966)、「コランダ」(1967)がある。六八年の本書によってロバーツの名はイギリスSF界に輝いたが、おりしもニューウェーブ運動の真っ盛りであり、彼の地味な作風はその喧噪の中に埋もれてしまった。もっとも彼はニューウェーブの作家たちともつき合いがあり、とりわけムアコックとは仲が良くて、ニューワールズ誌の表紙絵や挿絵、単行本の装丁をおこなったりもしている。さて本書の次に出版された The Inner Wheel (1970) は、これまた連作短編集だったが、超能力をテーマにしたミステリアスでやや感傷的な作品だった。彼が再び脚光を浴びるのは一九七四年に出版された The Chalk Giants によってである。これも連作短編集だが、ここでは『パヴァーヌ』で描かれていたテーマがさらに発展させられ、円環的な時間構造を持つ作品となっている。この作品は『パヴァーヌ』と並ぶロバーツの最高傑作だといっていい。舞台や雰囲気にも本書と重なり合うところがあるが、さらに野心的な作品となっている。中のエピソードの内、「猿とプールとサール」、「神の館」の二篇は邦訳がある。その後、時おり発表される短編を除けば鳴りをひそめていた感のあるロバーツだが、最近また活発な活動を始めている。八〇年の Moly Zero はひさびさの長編で、例によって素敵なヒロインの成長を描く、近未来のイギリスを舞台にしたSFである。八五年には邦訳もある「カイト・マスター」をプロローグとする連作短編集 Kiteworld が出版された。これも『パヴァーヌ』以来の力作との評判が高い。ロバーツの最新作は八六年に出版された連作短編集 Kaeti & Companyである。ここにも元気なヒロインが出てくる(素敵な幽霊の少女なのだ)。ロバーツはこれからもますますの活躍が期待される作家であり、もっともっと翻訳されてほしい作家でもある。
ところで、イラストレーターでもある作者の資質を反映してか、本書はきわめて絵画的・映画的なイメージに満ち満ちている。これもまたぼく個人の趣味的な感想だが、『ナウシカ』や『ラピュタ』の宮崎駿氏のアニメで、蒸気車の動きを、信号塔を操作する少年を、健気なエリナーの活躍を、ぜひ見てみたい気がする。
1987年4月