マイクル・P・キュービー=マクダウエル/古沢嘉通訳
『トライアッド』 解説
大野万紀
創元推理文庫
平成5年12月3日発行
(株)東京創元社
EMPERY by Michael P. Kube-McDowell
(1987)
ISBN4-488-70105-1 C0197(上)
ISBN4-488-70106-X C0197(下)
お待たせしました。本書は『アースライズ』Emprise(1985)、『エニグマ』Enigma(1986) と続く三部作の最終巻 Empery(1987) の全訳である。
まだ前作をお読みでない方に一言。前巻の解説で書いたとおり、本書もまた物語としては他の二作とは独立しており、『アースライズ』『エニグマ』の、さらに未来の出来事が語られている。でも、ここはぜひとも出版された順番に読んでいただきたい。特に本書は『エニグマ』との関連が大きく、説明なしで出てくる言葉もあるので、本書だけ読んだのではぴんとこないことが多いかも知れない。この三部作は、それぞれが中心となるテーマも、主人公も、物語の雰囲気も異なったものでありながら、それらが微妙に関連して壮大な未来のタペストリを織りなしているのだ。初めから順に読むことで、それを最も効果的に味わうことができるはずだ。
本書の原題 Empery には、皇帝の支配する広大な領土というような意味がある。ローマ帝国の支配権といった場合にも使われる。本書において、それは銀河に広がった人類文明の支配権だ。
二〇世紀の終わりに地球の技術文明は混乱に陥り、世界の秩序は崩壊した。しかし、宇宙からの電波を受信したことをきっかけに、人類は再び団結し、技術文明を再建して、異星人とファースト・コンタクトを行う。ここに新たなる宇宙時代が開幕したのだ(『アースライズ』)。
それは拡大の時代でもあった。人類は超光速宇宙船で宇宙に進出し、新たなコンタクトを求めて様々な星々を探検して回った。彼らをつき動かしているのは、人類の誕生にまでさかのぼるある大きな謎の存在だった。コンタクト技術者メリット・ザッカリーは、ついにその謎の根源に迫る(『エニグマ』)。
そして二七世紀。『アースライズ』から六百年、『エニグマ』からもすでに百五十年以上が経過している。人類とその植民地は地球からおよそ半径五十光年の範囲に広がり、平和な繁栄を続けていた。だが、領土の拡張はそこで止まっていた。『エニグマ』で、メリット・ザッカリーが明らかにしたように、その先、大熊座の方角には、人類の仇敵といえる恐ろしい圧倒的な敵が存在していたからだ。
その敵〈ミザリ〉は人類とは全く異質な存在であり、まるで人間が害虫を駆除するように人類を一掃してしまうだけの力を持っていた。人類は《方針転換》を行い、未知の領域の探検をやめて、彼らに発見されぬよう、自らの領土に引きこもったのだ。
そして百五十年が過ぎ、人々の中にはこの状態に飽きたらぬ思いを持つ者が現れてきた。積極的に打って出て、この閉塞状況を打ち破ろうというのだ。
恐るべき最終兵器《トライアッド》が準備され、戦いの機運が高まった……。
というわけで、今度は戦争だ!
ところが、この作者の場合、なかなかそう簡単にはことが進まない。『エニグマ』を読み、本書を手に取ったSFファンなら、いよいよ種族の運命を賭けた最終決戦が始まると思うだろう。普通のSFならそうなるところだ。特にアメリカSFなら。
SFの定石に沿いながら、それをどんどん外していくという、作者お得意の手法がここでも生かされている。いかにもそれらしい展開になると見せて、えっ、と思わせる。このあたりの作者のバランス感覚がとてもいい。そして、全体としては、実に骨太な本格SFとなっているのだ。
本書でも、『アースライズ』や『エニグマ』と同じく、組織の中に組み込まれた、決して万能の天才ではない人々の、困難に立ち向かうリアルな姿が描かれている。だからといって、最近の分厚いアメリカSFによく見られるような、メロドラマ的なせこい人間関係の描写にずるずると浸り込むような、そんなことにはならない。登場人物たちの人間的な強さも弱さも、それはメロドラマのレベルで自己完結することなく、作品のテーマと密接に関連してくるのだ。人間の攻撃性と愛について、爬虫類の脳と大脳辺縁系の話が語られているように(これはたぶんカール・セーガンの『エデンの恐竜』がもとネタだ)、人々の行動や考え方は人類の種のレベルから考察され、本書のSF的なテーマとからみあっていく。
このシリーズ(特に『エニグマ』と本書)の特徴として、もう一つ時間の扱いをあげておきたい。超光速飛行が可能な世界では、同時性というものをどう扱うかが、やっかいな問題となる。たいていのSFでは、あいまいにして、うまくごまかそうとするのが普通だ。本書ではそれを(科学的に見ればやはりごまかしには違いないが)それらしく扱うことに成功している。
本書で、遠く離れた世界間に同時性をもたらすものは、AVLOドライヴを備えた船であり、クライン通信機である。AVLO船は超光速といっても、目的地に瞬時に着くわけではなく、相対論的時差と同様なものが働く。つまり、乗っている人間にとっては数カ月であっても、残された者にとってはそれが何十年にもなるのだ。本書ではそのことが特に効果的に使われている。中心と辺縁の時間差をこのように効果的に描いた長編SFとしては、ジョー・ホールドマンの『終りなき戦い』があるが、本書はそれに勝るとも劣らない感慨を与えてくれる。こちらではこれほど緊迫した時間が流れているというのに、向こうではそれがひどく間延びした時間となる。政治のあり方も戦争のあり方も、狭い地球上でのそれと比べれば、ずいぶんと違ったものにならざるを得ないだろう。ある意味で、七つの海を帆船が航海していた時代と比較できるかも知れない。
本書の中心にあるのは、乱暴にいってしまえば、人類の宿敵ミザリに対する主戦派と反戦派の政治闘争である。でもそういうと、え、何だそんな話なの、とうんざりしてしまう人も多いだろう。SFにしろファンタジーにしろ、巷にはわれわれと関係のない世界での権謀術策や権力闘争の話が、満ちあふれているからだ。冷戦構造が終わりを告げて、二大国の対立という図式がリアリティを失った結果、スケールダウンした宮廷内の権力闘争が、架空世界を舞台にしたストーリーの中心になってしまったのかも知れない。中には優れたものもあるにせよ、大半は作者の貧困な政治意識を反映した、政治闘争とは名ばかりのコップの中の嵐の話である。
心配ご無用。本書は違う。単なる善玉・悪玉の対立ではなく、人類の未来に対する二つのビジョンの対立という、SF的でありながらまさに政治的な問題が扱われているのである。それも妙な権謀術策ではなく、ストレートで正統的なやり方でもって議論が戦わされるのだ。しかも、その背景に地球とのしだいに大きくなる時間差が存在するため、壮大な歴史の展開を眺めるような感慨がある。
SFで政治がテーマになるときは、独裁対民主といったわかりやすい単純なイデオロギー対立がベースになることが多い。悪い権力に対して革命を起こしたり、植民地が独立したり、すぐに戦争アクションになってしまうのだ。それが悪いというのではないが、いかにも芸がないという気がする。もちろん、地球環境の問題を取り上げたSFや、グローバリズムに対するマイノリティの闘争といった今日的なテーマを描いたSFもあるにはあるのだが。
本書では主戦派と反戦派という一見わかりやすい対立点を中心に据えながら、それを単純な対立にはせず、人間の本性にまでかかわる問題としてとらえ、宇宙における人類の未来を考えるというSF的なテーマとしている。物語の中ではやや否定的に描かれているウエルズの主張だが、日常に満足せず遠い宇宙に出ていきたいと思うSFファンなら、その主張には同感できるところも多いのではないだろうか。通俗的な意味での男性原理と女性原理の対立といった観点は、本書の主人公により否定されているのだが、そこにフェミニズムの強い影響を読みとることは十分に可能だと思う。いずれのテーマも、決して表面的に扱われることなく、作者なりにしっかりと考察されている。むしろ、単純な冒険SFを望む読者には、いささかわずらわしいかも知れないなと思えるくらいに……。本書は本格的な宇宙SFであると同時に、本格的な〈政治SF〉なのである。
結末の余韻がいい。七〇年代的な甘さの現れととる人がいるかも知れないが、この結末はとても好きだ。作者の他の代表作である『悪夢の並行世界』Alternities
(1988/ハヤカワ文庫)や『星々へのキャラバン』The
Quiet Pools (1990/ハヤカワ文庫)を読んでもわかるとおり、キュービー=マクダウエルの作品には、六〇年代末のアメリカの政治潮流を反映した、リベラルな理想主義といったものが深く根をおろしている。もっともそこには、七〇年代以降の挫折と屈折も同時に反映しているのだが。この点、キュービー=マクダウエルは、遅れてきたLDG作家だといってもいいだろう。
LDG(レイバーデイ・グループ)とは、トマス・ディッシュが七〇年代に活躍したSF作家たちをまとめて批判するために持ち出した言葉である。そこにはジョージ・R・R・マーチン、ヴォンダ・マッキンタイア、ジョン・ヴァーリイといった名前が含まれている。八〇年代に入ってから活躍を始めた(雑誌デビューは七九年だが)キュービー=マクダウエルは当然その中には含まれない。しかし、ジョージ・R・R・マーチンがディッシュの批判に答えてLDGの特徴を総括して見せた次のような文章を読むと、彼のことをLDG作家と呼んでも、決して間違ってはいないと思うのだ。
……我々の世代は、宇宙時代の最初の子どもだ。スプートニクが発射された時は学校へ通っていた戦後っ子だ。ハインラインのジュヴナイルとアンドレ・ノートンとコミックブックで文学的に目覚めた。我々の片足はトラディッショナルSFの陣営にある。ハイテクノロジーとハイアドベンチャーと、限りない楽天主義と大きく明るい夢のある陣営だ。しかし一方では、我々はベトナムと、フラワーチルドレンと、アナーキストと、六〇年代の反戦運動と、幻滅と、懐疑と、理想主義の世代でもある。LDGが心の底で行おうとしているのは、良きトラディッショナルSFの持つ色彩と迫力と無意識の力を、ニュー・ウェーヴの持つ文学的関心と結びつけること、詩人とロケット屋を交わらせ、二つの文化に橋をかけることだ。失敗する者もいる。当然のことだ。だがやってみるべきだろう。我々は理想主義者だっていっただろう? もとから夢想家なのだ。(F&SF誌八一年一二月号より/苑田卓訳・要約は筆者)
成功しているか、それとも失敗か、いずれにせよ、彼らと同世代に属する筆者にとって、その試みは共感のもてるものである。そしてキュービー=マクダウエルの作品にもまた、同じ共感を抱くことができるのである。
1993年9月