ジョン・ヴァーリイ/小野田和子訳
 『ウィザード』 解説

 大野万紀

 創元推理文庫
 平成6年4月8日発行
 (株)東京創元社
WIZARD by John Varley (1980)
ISBN4-488-67302-3 C0197(上)
ISBN4-488-67303-1 C0197(下)


 本書はジョン・ヴァーリイの『ティーターン』Titan (1979)に続く三部作の第二作『ウィザード』Wizard (1980) の全訳である。

 土星の探査に向かった有人宇宙船〈リングマスター〉は、そこで異星人のものと思われる直径千三百キロの車輪型の衛星を発見する。接近した〈リングマスター〉は捕獲され、乗組員たちは、その衛星テミス――またの名を〈ガイア〉――の内部に転生をとげる。
 そこは豊かな自然にあふれ、ギリシア神話のケンタウロスに似た知的生物であるティーターニスや、羽のある天使たち、生きている飛行船やその他、様々な異様な(だがどこか見覚えのある)生物たちのすむ世界だった。
 〈リングマスター〉の女性船長だったシロッコ・ジョーンズは、ギャビー・プロージットを始めとするかつての乗組員たちと共に、この世界の創造者であるガイアを求めて、ギリシア神話のティーターン神族から名をとったこの異様な車輪状の世界を旅し、ついに長い垂直なスポークを登る苦難に満ちた冒険の末、ハブに到達する。そこに、ガイアはいた。いや、ガイアとは誕生して三百万年になるこの世界そのものの呼び名であり、そこにいた老婦人の姿をしたものは、人間とコミュニケートするために作り出された被造物にすぎない。しかし、彼女はこの世界においては神に等しい存在だった。そして、シロッコは、ガイアから一つの提案を受ける。それは彼女に、ガイアの代理人としてこの車輪世界を統括してほしいというものだった。「どうだい、〃魔法使い〃になってみる気はないかい?」とガイアはいったのだ……。

 というのが、前作『ティーターン』のあらましである。本書ではそれからおよそ七十年が経過し、地球とガイアとの交流もさかんになった時代が描かれている。シロッコは〈ウィザード〉となり、ギャビーをその補佐役として、ティーターンたちのめんどうを見ている。そこに地球から二人の男女がやってくる。彼らはそれぞれ、ガイアに自分の悩みを解決してもらいたいと願っていたのだ。ガイアはそれを認める代わりに条件を出す。下で何かをなしとげ、英雄になって帰ってこいと。二人にシロッコとギャビーが加わり、ふたたび新たなる冒険の旅が始まる……。

 さて、このような設定のもとで展開する冒険物語は、本当の、未知なる世界を求めての冒険というよりは、むしろ冒険のための冒険といえなくもない。全能のゲームマスターであるガイアのプログラムの中で、与えられた敵や与えられた試練をこなしていくという、そう、よくあるRPG(ロールプレイング・ゲーム)そのものではないか……。本書の中で、ガイアはプレイヤーにこういうのだ。「この下には百万平方キロの大地がひろがっている。おまえの想像を絶するようなものの連続だ。ガラスの山のてっぺんには、ホテル・リッツぐらいあるダイヤモンドがおいてある。それを持ってきてごらん。非情な圧政に泣いている種族がいる。燃えさかる石炭のように熱く赤い目をした残忍な生物の奴隷になっているから、解放してやっておくれ。リムのぐるりには百五十頭の竜がいる。ふたつとしておなじ姿のものはない。一頭でいいから退治してごらん。下界には千もの正されるべき不正、のりこえるべき障害があり、救われるべき非力なものたちがいる。まずはあたしのなかを歩くことからはじめることだね。出発地点にもどるまでには、それこそ何度も勇気をためされることだろうよ」(本書上巻41頁)

 魅力的な舞台設定ではある。RPG好きなら、わくわくと胸躍るかも知れない。でも、それを不真面目だと感じる人もいるだろう。実際、『ティーターン』が発表されたころには、それまでハードで本格的なSFを書き続けてきたヴァーリイが、どうしてこんな通俗的な〈ファンタジイ〉を書くのだと、不満の声を上げるファンが多かった。ちょうど〈ファンタジイ汚染〉が論議を呼んでいたころで、SFの衣をまとった願望充足的な通俗ファンタジイの代表として、このシリーズもあげつらわれたものだった。『ティーターン』でも本書でも(そして続くシリーズ第三作ではもっと意識的に)、ハリウッドのB級映画やテレビドラマのイメージが多用され、ガイアの世界の作りものっぽさが強調されている。SFファンだけでなく、真面目なファンタジイのファンからも、このシリーズは批判される要素があったのだ。
 しかし、本書を読むと、おそらくヴァーリイの意図が、そういうRPG的な冒険ファンタジイの逆手を取ることにあったのではないかと思えてくる。『ティーターン』ではまだそれほど目立たなかったが、本書ではこの人工的な世界に対する主人公たちの嫌悪感が、ずっと表面に出てきているのだ。仕方なくゲームにつき合わされる身にもなってみろ、というわけだ。なにしろ〈ウィザード〉のシロッコはアル中で、物語の前半ではほとんどパーティの足手まといでしかないのだから。それは決して〃魔法使い〃としての夢のような冒険ではないのである。ガイアは決してディズニーランドではなかった(ヴァーリイは〈八世界〉シリーズで、〃ディズニーランド〃という言葉を、ハイテクで人工的に再現された過去やおとぎ話の世界という意味で使っている)。安田均氏は、『ティーターン』の解説でこのシリーズが『オズの魔法使い』を思わせると指摘しているが、まさにその通りだといえる一方で、その裏の面にも注目する必要があるだろう。あまり詳しく書くわけにはいかないが、それが本書の後半で、特に重要な展開を見せることになるのだ。

 このガイアの世界は、基本的にはもてなしのいい、居心地のいい世界だ。だが、そこには意地悪い罠が待ち受けている。シロッコの言葉を借りるならば、相手が神ならばあきらめることができる。でもそれが社会や人間の不正ならば、怒りをもって立ち向かわねばならない、という種類のものだ。ファンタジイの世界では、運命が定められているなら、登場人物がそれに逆らうことはまず不可能だろう。だがここは作りものの世界であり、プレイヤーがその与えられた役割(ロール)を変えることも(少なくともそう努力することが)可能な世界なのだ。そのうえ、ここのゲームマスターは三百万歳の、少しぼけかけた老婆であり、インチキをするかも知れないし、ゲームのルールをころころと変えるかも知れないのだから。
 というわけで、本書のシリーズは、一見RPGゲームそのものの、よくある冒険ファンタジイの姿を借りながら、そういったB級ファンタジイのより深い本質を、ゲームとは一体何なのか、願望充足の暗い情念はどこからくるのか、あるいはゲームと現実はどこが同じでどこから違ってくるのか、といったことを考えさせる作品となっている。そういう意味では一種のメタ・フィクションといえるのかも知れない。今風にいえば、ヴァーチャル・リアリティがテーマだといってもいいだろう。テレビゲームの画面と同じ画面の向こうで人々が実際に死んでいる……湾岸戦争で議論を呼んだのと同じ問題意識だ。もっとも、ヴァーリイのヴァーチャル・リアリティは、コンピュータ・テクノロジイによるものではなく、もっと生物学的なものである。それは初期の短編からずっと繰り返し描き続けられているものだといっていい。クローンや、バイオ・テクノロジイによる人間の変容が、リアリティというものの意味を変えていくのだ。そういう意味で、このシリーズはりっぱにSFだといっていい。

 もう一つ指摘しておきたい点がある。思いっきりおとぎ話的な、非日常的な世界を舞台にしながら、本書の登場人物たちはヴァーリイの他の作品と同様に、様々な面で障害を持つ、社会のマイノリティや被差別者たちである。本書は特に、その救済の――あるいは治療の――物語としても読める。それがこのような物語の形をとらざるを得ないところに、またヴァーリイの弱さを指摘する人がいるかも知れない。しかし、ヴァーリイの多くの短編でも描かれているように、モラトリアムにとどまるということが、はたして無条件に否定されるべきことなのか、ということは、落ちついて考えてみる必要があるように思う。成長することが常に善であるというのは、そろそろ考え直してもいいのではないだろうか。もっともヴァーリイはそれを肯定も否定もしていないのだが。

 三部作の最後の長編である Demon (1984) では、本書のテーマはさらに深まり、クライマックスを迎える。本書からさらに数十年がたち、その間に地球では核戦争が勃発、人類の文明は崩壊したのだった。そして、本書の登場人物たちがふたたびガイアに集まり、最後の物語が始まる……。本書の結末で、これから一体どうなるんだろうと思った人、あの人たちのこれからが知りたい人、さっそく「続きが読みたい」と書いて、編集部へお便りを出そう!

 八六年の第三短編集 Blue Champagne 以後、しばらく新作の話題がなかったヴァーリイだが、最近になってまた活動を再開した。九二年に発表された〈八世界〉シリーズに属する最新長編 Steel Beachは、九三年度のヒューゴー賞候補にもノミネートされ、なかなかの評判である(この作品は早川書房から翻訳が出る予定だと聞いている)。デビュー当時からのファンの一人として、ヴァーリイの更なる活躍に期待したい。

1993年12月


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