(SFマガジン 1980年1月号掲載)

SFスキャナー
「永遠のコードウェイナー・スミス」
  

大野万紀

 コードウェイナー・スミスの名を知っていますか? 知らなくても、別に恥ではありませんが、この機会に覚えておいて下さい。知っているとなかなか便利なものです。たとえば、あなたがどこかのSFファングル?プに人って、初めてその会合に出かけたとします。あるいは、SF大会とかフェスティバルとかで、いかにもSFマ二アという顔をした連中と話をしなければならなくなったとします。おそらく、その異様な雰囲気に、あなたは圧倒されてしまうでしょう。連中は、SFのことなら何でも知っているという顔をして、初心者のあなたをもてあそぼうとするのです。いかにも優しそうににこにこしながら、たとえば、「SFでは、どんなのが好き?」と訊いてきます。(最近ではこんなこと訊かないのかなあ?)
 あわててはいけません。ここでうっかりしたことをいうと、後々までたたります。もちろん、まずあなたが本当に好きなSF作家の名前をあげなければいけませんが、敵があまりにもマニアマ二アした顔をして「ふん、ふん、かわゆいね」てな感じで訊いている場合には、最後にひと言つけ加えるのです(どういうのが〃マ二アマ二アした〃顔かといいますと、見本をお見せするのが一番いいんですが、まあ、ひと目見ればわかると思います)。

 「それから、コードウェイナー・スミスとか……」

 このひと言で、相手の態度ががらりと変わるはずです。変わらない場合、その相手のマニア度は、そうたいしたものじゃない、と判断してさしつかえありません。
 もっとも、あまりやり過ぎてはいけません。やり過ぎると、「またか」と露骨に嫌な顔をされたり、場合によっては「SFの話をするやつはきらいだ」などといわれたりします。後者のような場合には、「マ二アだって人間なんだ――」と小さくつぶやいて、なるたけ早く立ち直ることをお祈りします。

 ――というように書いてきたけれど、むろんこれは冗談で(?)、全国のSFファングループの大部分は、こんな嫌味ったらしいものじゃなく、もっと親しみやすいものなのである。たぶんそうだと思う。ま、ちょっと覚悟は……いえいえ、どうぞ安心してお入り下さい。

 問題は、コードウェイナー・スミスが、マニアだけのもののように思われている、という点にある。これはティプトリーとかその他のすぐれた作家についても同様だが、彼らがマ二ア受けする作家であるというのは事実としても、彼らの才能は決してそんな狭い世界に封じ込められるべきものではない。彼らの描く世界がどんなに風変わりでも、SFファンならだれでも容易に入り込めるはずだと思う。たしかに現在、読もうにも入手しにくいという現実はある。文庫にも入ってはいるが、多くは雑誌のバックナンバーを捜さねばならない。でも、それだけ努力しても読む価値はあると思う。できれば一篇だけでなく、何篇かつづけて読んでみてほしい。ハードSFのファンでもファンタジイのファンでも、それらとは違う何かを見つけられるはずだ。
 ぼくがコードウェイナー・スミスにとりつかれたのは、そう古いことではない。機会があって短篇集を借り、一読してからだ。それからスミスの載ったぺーパーバックをしらみつぶしに読みあさり、気がついてみたらほとんど全部読んでしまっていた(こんなことが可能なのは、スミスが一九六六年に死んでしまったからだ。もう作品数が増える心配はない。ところが……という話もあるのだが、また別の機会に)。当時、手に入りにくかったスミスの本を借してくださった伊藤さんや安田さんには感謝している。ぼくがこんな読み方をしたのは、スミスの他はティブトリーとヴァーリイぐらいだ。

 海の向こうにも熱心なスミス・ファンがいる。J・J・ピアースという人だ。ニュー・ウェーヴ騒動のころはエリスンとけんかしたりした人だが、スミスの研究では(少なくとも書誌的な面で)彼の右に出る者はない。彼の熱心な働きのおかげで、スミスの宇宙はわれわれにとってずいぶん鮮明なものとなったのである。
 一九七八、七九年は、C・スミスのファンにとって、もうひとつのエポックだった。スミスが死んで、彼がアメリカ国務省の大物、孫文の名付け子で極東の専門家である、ポール・ラインバーガー博士その人だったと知れた一九六六年を第一のエポックとするならば、第二のエポックは、J・ピアースの活躍もあって、バランタインから傑作短篇集"The Best of Cordwainer Smith"(ピアース編)と、完全な形での初めての長編"Norstrilia"が出版された一九七五年だろう。そして昨年から今年にかけて、長らく絶版になっていたオムニバス長編"Quest of the Three Worlds"が再刊され、また、絶版となっていた初期の短篇集や、その他の落ちこぼれを集めた短篇集"The Instrumentality of Mankind"(ピアース編)が出版されたのでである。これでスミスの作品はほとんど全部読めるようになった。
 そこで、今回は、今までほとんど紹介されていないオムニバス長篇『三つの世界の探究』"Quest of the Three Worlds"を紹介しよう。これは、キャッシャー・オニールを主人公とした連作で、オリジナルは六三年と六五年のギャラクシイ誌に掲載された四つの中短篇である。

 第一の舞台は〈宝石の惑星〉、ポントピダン。ダイヤモンドやエメラルドの山、ルビーやトルコ石の谷が広がり、人々はみな豊かで、快適な日々をおくっている。故郷を捨てた宇宙の放浪者、キャッシャー・オニールがこの惑星にやって来たのは、故郷の惑星を圧制者から解放するための助力を求めてだった。
 時代は〈人間の再発見〉がはじまってから二世紀後、人々が古代の名前、古代の言語、古代の風習を、太古の地球{マンホーム}のデータ・バンクから発掘していった時代である。
 キャッシャ?・オニールの故郷は〈砂の惑星〉ミズ?ル。彼はその支配者だったクラーフの甥だった。クラーフは確かに独裁者だったが、彼を追放し、改革の名の下にミズールを支配したウェッダー大佐よりはましだった。キャッシャーは、〈福祉機構〉に助けを求めたが容れられず、星々を放浪する身となったのだった。
 ポントピダンに降りた時、キャッシャーは失望した。ここには戦いの雰囲気などなかったのだ。ここで、今、人々の話題の中心となっているのは、一匹の馬だった。
 である。動物から改造された人間〈アンダーピープル〉ではない。動物の、馬。
 ミズールにはたくさん馬がいた。この星にはいない。
 ポントピダンの世襲執政官フィリップ・ビンセントは、キャッシャーに、巨大な緑のルビーを提供しようと申し出た。それは最強のレーザーの材料となる。もしキャッシャーが二つのテストに合格したら。一つは、彼が第二のクラーフにならないか、テレパシーで心を探ること。もう一つは、この馬の問題を解決することである。
 馬の問題とは何か?
 「でも、おじ様」と、さっきから執政官の横でしきりに口をはさもうとしていた可愛い女の子が、ついにいった。「馬のことなら、あたし、全部わかってるのよ」
 彼女はジェネビーブ。あまりにも美しく、あまりにも知的で、でもせいいっぱい背のびしようとする子供の魔力を秘めた、小さな女の子。
 ジェネビーブはこの問題を説明するためにビデオ・ドキュメントをつくっていた。まずすばらしい本物のコーヒーを味わった後、映写がはじまる。
 六キロメートルの高さでそそり立つエメラルドの谷がある。フジ色の太陽がその谷に沈む。カメラは谷底からぐんぐん上昇してゆく。ダイアモンドの山やトルコ石の谷の中で、そのエメラルドの峡谷は、まるで女性のヒップのように見える。「これが、」とジェネビーブの声。「ヒッピー・ディプシーです。馬はここからやって来たのです」
 一人のノーストリリア人の世捨て人がそこに住みついていた。馬は彼のペットだった。ノーストリリア人は馬を不老不死にしたまま、死んでいった。残された馬は病み、だが死ぬことはできず、心は人間への愛でいっぱいで、酸素ボンべを背負い、人を求めて危険な宝石の山や谷を越えて来たのである。
 ポントピダンの人々、さらにはロボットやアンダーピープルたちにしても、馬をどうしていいのかわからなかった。不老不死の馬はいったい何に病み、何に苦しんでいるのだろうか……?

 〈宝石の惑星〉で馬の問題を解決したキャッシャーが今度訪れたのは、〈嵐の惑星〉ヘンリアーダである。ここの行政官がキャッシャー・オ二ールを援助する条件として持ち出したのは、一人の少女を殺すことだった。人問ではない。ただのアンダーピープルの少女である。だが彼女は、この惑星の実質的な支配者なのだ。
 へンリアーダは荒廃していた。耐えず吹き荒れる猛烈な嵐。何本もの竜巻がつねに垂れ下がっている。町の一歩外は沼地。キャッシャーは、完全装備の地上車に乗って、彼女の領地へと向かう。運転するのは、何かの犯罪を犯して過去を消された〈忘却者{フォーゲッティ}〉ゴシゴ。だが、ゴシゴは、自分は行政官ばかりでなく、〈彼女〉からの命令にも従うのだという。嵐。空中から地上車をのみこもうと狙う〈空鯨{エア・ホエール}〉。それは、竜巻に巻き上げられ空で暮らすようになったマッコウクジラの子孫だ。風の間に問に空中を漂う野性化した人々もいる。彼らは〈風の人々{ウインド・ピープル}〉と呼ばれる。
〈彼女〉の領地のまわりに、嵐はなかった。そこでは天候機械が動いていた。高い塔のようなものが見える。ゴシゴは、それを〈空珊瑚{エア・コーラル}〉と呼ぶ。これもまた突然変異して空中で生きるようになった珊瑚だ。
 水辺に美しい屋敷があった。彼女がそこにいた。名前はト・ルース。亀{タートル}を祖型とするアンダーピープルである。
 「わたしはこの屋敷の女中です」と少女がいった。
 「わたしはきみを殺しに来た」とキャッシャー。だが、そんなことは不可能だった。ト・ルースは〈愛〉で武装していたからである。
 彼女は、彼女の主人、ノーストリリア人マレイ・マディガンの世話をするために、この惑星を支配していたのである。その権威は〈福祉機構〉からくるものではなく、今でも半ば非合法の、もうひとつの権威、〈古き巨大なる信仰〉からくるものだった。
 ト・ルース(もちろん真実{トルース}という意味である)は、ほとんど寝たきりの主人の世話をして、もう九百年生きている。彼女の寿命は九万年あり、それに較べれば、まだほんの少女なのだ。また彼女の脳には、主人の妻で、強力なテレパスだった死せる市民、アガサ・マディガンの意識がプリントされている。これは違法なことだったが、そのためこのアンダーピープルの少女は大変な力をもっているのだった。
 キャッシャーは結局、ト・ルースの手助けをすることになる。まず、狂ったゴー・キャプテンとの対決である。彼はミズールでの恐ろしい悲劇の体験を武器として、この試練をのり切る。
 ト・ルースは自分の意識をキャッシャーにプリントする。同時に、強大なアガサ・マディガンの意識も。新しい人格となったキャッシャーは、〈福祉機構〉の力を借りることもなく、〈第三宇宙〉を通り抜けて、直接、故郷、ミズールへと帰り着く。

 そこで、第三の舞台は、キャッシャーの故郷〈砂の惑星〉ミズールそのものである。〈十二のナイル〉の流れるこの星で、キャッシャーは仇敵ウェッダーと対するが、この戦いは完全に心理的なもので、ごくあっけなく終わった。一滴の血も流さず、ミズールは解放された。彼は宮殿を後にする。一生の目的を終えてしまった今、何もすることがなかった。だが彼は、ポントピダンで出会った犬娘ダ・ルマと再会する。ダ・ルマは彼を待ち受けていたのだ。彼女は彼に、すべての探究者が求める秘密の聖地〈十三番目のナイル〉への道を示す。
 その道にはいろいろなものがあつた。
 〈希望のない希望の街〉。完全なる人々の住む都市。通せんぼをする門。世界中の幸福が集まる町……。
 そして、ついに〈十三番目のナイル〉の源、〈呪われたイレーヌの深い乾湖〉にたどり着く。そこで彼は、自分が何を得たのか知ったのだった……。

 『三つの世界の探究』はこれで終わりだが、あとひとつ、エピローグとして、人類に対する激しい憎悪を放射している惑星と、その脅威を取り除くために自らを武器としておもむく三人の改造人間の話がついている。キャッシャー・オニールが、その種族を発見し、〈福祉機構〉に知らせたのだ。彼らはニワトリから進化した種族だった……。

 ……と、後になるほど駆け足で、大事なところは全部すっとばして紹介したのだが、これでも多少は雰囲気がわかっていただけただろうか。いずれも異様な雰囲気をもったストーリイである。その舞台はこの世のものとは思えないほどに美しい。〈嵐の惑星〉と〈砂の惑星〉で特に顕著に現われているのだが、この小説はスミスの宗教的な側面が非常に強く出ている作品だ。スミスの死の直前に書かれたものであり、キャッシャー・オニールの巡礼の物語としても読める。
 だがそのことは必ずしも欠点となっているとは思わない。むしろ、神秘的で、深い感動をさそう要素である。もちろん、SFとしても充分に楽しめるのだが。

 スミスの生涯はまったくドラマチックだ。もしかしたら極東の現代史の中で、一種の黒幕的人物だったのかもしれない。なんとなく伝奇ロマンの臭いがある。おもしろいなあ。
 もうひとつ。この小説には現代史の一片が封じ込められているのだ。あるべージの文章の頭文字をつなぐと、"KENNEDY SHOT"(ケネディが撃たれた)が現われ、そこから数ページ先には"OSWALD SHOT TOO"(オズワルドも撃たれた)が現われるのである!


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