みだれめも 第121回

水鏡子


 鋳型を刻みこんだメロディの力というのは、すごいものがあるのだなと、あらためて思った。
 ドラクエである。
 TVゲーム三昧の生活から脱却することになった(パソコン・ギャルゲーに移行しただけだという説もある)直接的な原因はプレステを買わなかったことであり、決定的な分岐点は、FFプレステ第1作の発売時、迷いに迷って断念したことであるけれど、たぶんその遠因は、前回のドラクエのできの悪さに怒り狂い愛想をつかしたことにあったと思う。だから新作発表の報を聞いても、ふーんと冷たい反応を返していただけだったのに、TVCMを見ていると、心が揺れる。プレステ2を買おうかと思い惑う。小学生のスマップなんかは関係なくてもちろんあのメロディである。でもなあ、せっかくプレステ1を買わずにがんばっていたのに、ここで2を買ってしまうと、さかのぼってFFをやっちまいそうだしなあ。どうなるか。答えはさ来月、8月26日。
 同時に気がついたのは、ぼくのギャルゲー三昧は、むかしのザッタを見ていただければわかるけど、まさに前のドラクエの発売の日に開始されている。じつはドラクエへの怒りの受け皿となって一気にはまりこんだのだということ。TVゲームにとって変わり、市民権を得る可能性のある、勃興期のエンターテインメント・ジャンルとしてのジャンルの熱気を味わいながら追走してきた。
 エルフ、アリス、リーフ、シーズウェア、といった、作家性もしくはゲーム・センスに優れた作品をつづけさまに送り出す会社の姿勢に、社会的抑圧のなかでの居直り的上昇志向を心地よく楽しんできたのだけれど、跳梁跋扈する鬼畜陵辱系ソフトの許容のされ方、人をモノ扱いするシナリオが、思想的覚悟もないルーティンワークで生産され、受容される、生産者と消費者の共同作業で形成されるジャンル的文化規範にだんだん嫌悪感がつのってきている。メジャー・エンターテインメントの文化規範には意外にヒューマニスティックなねっこがある、というのがぼくの信条であって、非ヒューマニズムを標榜するには純文学的重みを備えることでそれを突破するか、もしくはそれをクリアーしないで裏世界の文化にとどまることを甘受するかのどちらかしかないと思うのだ。
 さらにいうなら、以前のエルフを筆頭に、ある時期までのギャルゲーは、生産側のヴィションのなかにSFや各種ゲームで培ってきた文化背景を彷彿させるものがあきらかにあった。市場的意味でのある種のメジャー化が成立するにしたがって、生産される製品が、ギャルゲーで育った人間による同族文化規範の再生産といった気配がとみに感じられるようになってきた。まだこの時期で他ジャンル文化の蓄積を取り込もうとする気配が薄れてきたことで、ジャンルの質的興隆を期待する気分がなくなってきた。
 時代は、ワイドショー的センセーショナリズムが大きな顔で練り歩き、そんな規範もどこ吹く風で、ギャルゲーについてもメディア・ミックス的にむしろ認知の度合いが進んでいる気配がある。けれど、これらのゲームが仮にメジャーなエンターテインメント・ジャンルとして市民権を得ることがあったとしても、すくなくとも、今の状態で得られたような市民権などこっちの方が願い下げにしたい。あたらしいドラクエが出ることでもあり、そろそろ古巣にもどるのもいいかもしれない、と思ったりするのもじつはそういう心境の反映なのかもしれない。そうすれば、ぼくのギャルゲー三昧もドラクエとドラクエの場つなぎにすぎなかったということになる(かな?)

 『銀河おさわがせマネー』を読むと、マジカルランドのレベルというのが、ものすごく低いところで安定していたことがわかった。それでもそれなりに楽しんできたわけだけど、こちらと比べてお話密度が全然ちがう。だけどこれだけ中身が濃くていつものアスプリンの倍くらい楽しんだというのに、作品評価というかたちをとると、本書もマジカルランド各話も同じ中の中というところに収まってしまう。謎である。

 ヴァン・ヴォークトの読み返しとかであんまり新刊を読んでいない。コミックは100冊くらい読んでるような気がするし、ゲームはやめてないし、菊地秀行や夢枕獏、池波正太郎とかレビューすることを意識しない本は読み捨て感覚でそこそここなしているのだけどね。菊地<妖美獣ピエール>のシリーズは買い。

 で、あんまり書くことがないので、『雑多繚乱・ぞくぞく』として、昔の原稿を2つ持ってきた。
 ひとつは、だいぶん前の週間読書人で2年間やったSF時評。
 もうひとつはちょっと前に神戸大SF研の会誌のSF入門特集に載せたやつ。
 ほんじゃ。


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